マスターの身近にいるということは大変なことです。
まわりから見れば、マスターの近くに過ごすことができるなんて、なんて恵まれているのだろうと思われるかもしれませんが、マスターの覚醒の光の前では、自分が秘密にしておきたいこと(秘密の窓)、さらには自分にさえわからなかったこと(盲点の窓や未知の窓)までもが白日の下にさらされてしまうわけなのですから。
とはいえ、マスターは弟子に聞く準備ができていないときには、無理やりそのことを指摘するようなことはしません。
マスターが弟子を打つときには、弟子に目覚める準備ができたときです。
マニーシャは長年Oshoの身近に過ごし、多くの質問をし、まさに準備ができている弟子のひとりであることは間違いがありません。
そのようなマニーシャがOshoに質問をし、そしてOshoがその無意識的なことや無意識の中にある条件付けについて指摘するときには、同じようなものが自分の中にもないかを見るための機会です。
そういう意味では、言い方は適切ではないかもしれませんが、マニーシャは、私たちが自分自身の条件付けを見るための生け贄になってくれていたようなものです。
そして、そのような無意識の条件付けのなかにいる夢の中から目覚めることができたときにのみ「本物の自分自身となる」ことができるのです。
本物の自分自身を見いだすことができるようになるようにと、マスターは妥協のない愛を注ぎつづけるのです。
マニーシャは書いています。
「ひどい風邪をひいて寝込んでいる、ある友人を見舞いに出掛けたことで舞台を用意したのはこの私だった。
私は風邪に感染する危険を冒し、もしそうなれば講話に出られなくなると知っている。
講話に出られる健康状態でなければ、Oshoにスートラを読み上げ、質問に答えてもらうという心から愛する仕事ができなくなってしまう。
Oshoの健康は常に不安定なので、何らかの感染症の疑いがあるだけでもブッダホールに来ないようにと言われている。
案の定、数時間後に私は風邪の兆候と思われる症状に気づく。私はシュンニョーーその時期にOshoの世話をしていたサニヤシンーーにからだの具合が悪いので、講話に私の代役を立てる必要があると伝える。
私は内心、自分自身を呪った。自分の不注意から風邪をひいてしまった。それは少なくとも、一週間は講話を欠席することを意味した。
仕方がないわ、自分が招いたことなのだから‥‥‥。
その晩、皆が講話に出ている間、私はコミューンのビデオ部の部屋で、モニターに映る講話の実況を見ている。
通常私の代役を務めるサニヤシンが不在だったので、Oshoの秘書のひとりであるアナンドが、私の代わりを務めている。
その日のスートラは、こんなふうに始まる。
「抜隊曰く、両親の隣で眠りながら、打たれたり病気で苦しんだりしている夢を見ている子供を想像するがいい。
親は、その子がどんなに夢の中で苦しんでいても助けることはできない。誰も夢を見ている人のマインドの中には入れないからだ。
だが、その子が目を覚ましさえすれば、自動的にその苦しみから抜けられる……」
「抜隊は正しい」とOshoは言う。
「しかし光明を得た人間が、得ていない人間のために方便を使うという可能性はある。夢を見ているマインドに侵入する必要はない」と言って言葉を区切り、そして続ける。
「偶然にも、今日は深刻なマニーシャの代わりに、こうしてアナンドがスートラを読んでる……」
こう言うとOshoは椅子から身を乗り出し、笑いながらアナンドをくすぐる仕種をする。彼女がキャーと声をあげ、弾かれたように笑い出すと、それにつられてホール中のサニヤシンが笑いどよめく。
私は言葉を失った。ショックで感覚が麻痺している。
Oshoは私を「深刻なマニーシャ」と呼んだ! 何という侮辱なの!
私が打たれているのに、私の「友人たち」は笑っている! 私は深刻な人間なんかじゃないわ! どうしてそんなことが言えるの?
私の友人なら誰だって、私には素晴らしいユーモアのセンスがあるってことを彼に言えるわ!でも私の「友人たち」ですって? 聞こえているのはその「友人たち」の笑い声で……この私を笑っている!!
Oshoが、意図的に私を打っているのはわかっている。自分の仕事に不注意だったことと、深刻であることに対して、彼が愛から打っているのだと私は知っている。
こんなに激しく打つのも、私が打たれたからといって気を悪くしたり、彼に対して閉じてしまったりすることなく、一打を受け止めると信頼しているからこそだ。
それにしても、ああ!なんて痛いのだろう。
私は、彼の言うことの本当の意味を理解できるようになるほど長い間、Oshoと過ごしてきた。
誠実であることーー何であれ、やっていることに対してを全面的(トータル)であるのは大切だ。
しかし、一般社会やキリスト教的価値観の中では賞賛される「深刻さ」は、Oshoのもとではエゴの兆候と理解される。
導師(マスター)がいま私に働きかけていて、それは愛から為されているのだという認識が、痛みの感覚と戦っている。
もしもその痛みから自分を守ろうと私自身を閉じれば、彼の愛に対しても閉じてしまうことにな
る。
もしもOshoの愛を受け容れるなら、同時に、一打に対しても開かなけれぱならない。
おそらく私は、誰よりも多くOshoから打たれた。私は年期の入った打たれ屋だ!
しかし今回の一打は、愛とは相手の完璧さのみを見て、ひたすら相手を褒め、支持するものだという考えを思い起こさせた。この考えは、私に甘かった愛する父から無意識に受け取ったメッセージだった。
Oshoとともにいることで、私は愛の持つ様々な次元を見せつけられている。
それは絶対的な信頼に裏打ちされた愛であり、それを与える者と与えられる者の絆があまりにも深いゆえに、真実を語るのを少しも恐れないのだーー
それがどんなに痛みをもたらしても。そしてそれまた感謝や見返りを少しも期待しない。
それは私の中に潜在する可能性を見て取り、私が本物の私自身となるまで、決して妥協することのない愛だ。
講話を見ている間に、こうしたあらゆる思いが私の中を去来する。
Oshoはホールに座っている全員のほうを向き、今度は彼らをくすぐろうとしている。私は自分自身の中に埋没するあまり、スートラそれ自体が方便について語っているもので、Oshoがたったいま、目の前でそのひとつを実際にやってみせていることに気づかない。
だが、これこそ生きた実存的禅なのだ!
私の屈辱感は、皆の笑い声が大きくなるにつれて膨んでゆく。だが、Oshoはまだすべてを終わらせていなかった。
彼は続ける。「両親はその子をくすぐって起こせばよい。子どもの夢の中に入る必要はない、ただ子どもを起こせばよい。
存在は何とも素晴らしいやり方で物事を運ぶ……偶然にもマニーシャは休みで、今日はふさわしい子どもが私の目の前で眠っている。」
痛い! 痛みに次ぐ痛み! 私が深刻な人間だというだけでなく、存在が物事を素晴らしいやり方で運んだおかげで、私は講話を休んでいるというわけだ!
そしてーーその上さらにーー代役のアナンドが「ふさわしい子ども」だということは、私を「ふさわしくない子ども」にしていた。
講話の残りは、私にとって存在しないのも同様だった。
あとになってそのことについて話すと、友人たちは私の受けたショックの大きさに驚く。
以前Oshoの世話係のひとりだったサニヤシンが、私にこう尋ねた。「深刻だって言われたとき、いったいどんなふうに感じた?」
彼女自身、何度もOshoに打たれてきた人間として、思いやりと好奇心の相半ばする表情で私を見る。
Oshoの言ったことが、私のエゴにとって強列なパンチだったのを、彼女が見抜いているのがわかる。
「あのことを深刻にとって、Oshoが正しいってことを証明するつもりはないわ!」と笑い飛ばすと、彼女も同意するようにクスクスと笑った」