OSHOが肉体を離れたのは、もう25年も前のできごとなのに、
昨日のことのように思いだされます。
このマニーシャの手記にあるように、
このころOSHOの肉体はさらに弱っていて、
ブッダホールに現れることも難しくなってきていました。
しかもタリウムの毒の影響で、
OSHOの身体は激しい痛みに苛まされていたのです。
不思議なことなのですが、普通であれば、
そのような身体の状態にあれば、
やつれてしまった雰囲気が感じられるものです。
ところがOSHOからはみじんもそのようなことを感じられませんでした。
確かにOSHOの身体はどんどん動けなくなり、
歩くのさえもゆっくりとしか動けなくなっているにもかかわらず、
OSHOがブッダホールに姿を現したときには、
エネルギッシュな音楽と歓声、踊りと拍手でいっぱいになるのです。
そしてOSHOによって瞑想のピークへと誘われていくのです。
後になって、その時のOshoの様子をビデオで見れば、
今にも崩れ落ちそうな足取りで、一歩一歩、
ブッダホールの縁に沿って、ゆっくりゆっくり、
小刻みに足を横に動かしながら、丁寧に、
いつものナマステ(合掌)をブッダホールに集まっている
人たちに挨拶をしています。
ダイナミックな音楽とともに、そこに集まった人たちは
座りながら上半身を激しく動かし、
喜びとエネルギーで沸き返っています。
ブッダホールはエネルギーではち切れんばかりです。
Oshoは明らかに、それが最後のお別れだということを
知っていたのでしょう。
いつもはビデオカメラなど見たことがないのに、
ちょうど去り際に、ちらりとビデオのカメラを
見たように思いました。
ビデオを通して、ビデオを見ている人たちへの、
お別れの一瞥のようでした。
マニーシャは書いています。
「今晩、OSHOがブッダホールに到着する直前に、
アムリットが皆を前に短いアナウンスをする。
OSHOの身体は弱り過ぎていて、
今日は私たちと踊ることができないが、
彼がホールに入って来るときと出て行くときは、
音楽に合わせて踊り続けるようにとのことだ。
数日後、別のアナウンスがある。
OSHOはもはや話ができない状態であるとのこと。
以前の私だったらそれを聞いて、
さぞかしがっかりしただろう
ーー講話も、かつてのような美しい親密さも、
もうありえないのかしら? と。
しかしいまの私はそれを聞いて、
OSHOが私たちに向かって話すことで、
彼自身を消耗させる必要がなくなったことに安堵する。
たぶんそれは、私たちが言葉で私たちのマインドを
繋ぎとめる必要がなくなるほど、
成熟してきたという意味だろう。
いまの私たちは彼の臨在の許に、
ただ沈黙して座ることができる。