マインドの愛とハートの愛

マインドで愛することはできない。
なのにマインドで愛そうとしている。

それが現在の愛についての問題の悲劇であるように思われます。

愛について、私たちはいろいろ悩みます。

愛ってなんだろう?
どういうふうに愛すればいいんだろう?
自分は愛されているのだろうか?
これって本当の愛なのだろうか?

愛について悩み、
愛について考え、
そして結局解決策を得られることはありません。

それはある意味当然のことです。
なぜなら、私たちは、愛することができないマインド(頭)で愛そうとしているのですから。

マインドは愛を知らないので、愛することもできないからです。
そして学校でも愛することについて学ぶことはありません。
なぜなら学校教育はマインドの教育の場所であって、ハートについては教えていないからです。

私がハートについて知りはじめたのはOshoに出会ってからでした。

愛の源泉はハートの中にあり、ハートについて知ることなしには本当の愛についても知ることができないのに、学校ではそのことを教えないて、おかしいなと思います。

ハートを知らないで人生を過ごすことは、人生で得られることの半分も得ることはできないというのに、ハートについて教えないなんて。

マインドを通して得られることは、人生の中でも非常に限られた領域のものです。
そして人生で本当に大切なこと、例えば愛することとかについては教えられることはありません。

目に見えない世界のことや、生の神秘はハートを通して得られるものです。
そのハートについて学ぶ機会のひとつが「ハート瞑想」です。

それでは、Oshoの叡智をお楽しみください。

愛のようなものでさえ
マインドの仕業でしかないというふうに
私たちは聞かされ、教えられ、プログラムされてきた

愛は、本来ハートに属しているものだが
私たちの社会全体がハートを避けて通ろうとしてきた
なぜなら、ハートは非論理的、非合理的だからだ

だが私たちのマインドは
非論理的なもの、非合理的なものはすべて間違っている
論理的なものだけが正しいと教育を通して訓練されている

そして私たちの教育指導要領のなかにハートが占める場所はない
そこにあるのはマインドのものだけだ

ハートは私たちの存在からほとんど取り除かれ
沈黙させられてしまった

ハートは成長する機会ーー
その本来の可能性を具現化する機会を一度も与えられていない

だからマインドが支配的なのだ
金に関してマインドは役に立つ
戦争に関してマインドは役に立つ
野望に関してマインドは役に立つ

ところが、愛に関してマインドはまったく役に立たない
--金、戦争、欲望、野望--
愛をこれらと同じ範疇に入れることはできない

愛はあなたの存在のなかで別の源泉を持っている
そして、そこでは何ひとつ矛盾していない

ゴールド・ナゲッツ