結婚とは何か?

結婚とは何でしょう?

結婚というと、二人の愛し合った人たちが、生涯を共にすることのように思われます。

それは二人の別々の人たちがお互いを理解しあい、最も親密な関係になることだとみなされています。

お互いが他人同士ではなくなり、ひとつになろうとする努力でもあるようです。

でも、それは可能なのでしょうか?

相手を知ろうとすればするほど、未知なることがわかってきます。

それは、この宇宙を知ろうとすればするほど、解明されればされるほど、未知なる部分が大きくなってくるようなものです。

心理学者ジョセフとハリーが発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」の「ジョハリの窓」というのがあります。

この人間理解のモデルによると、自己には「公開された自己」と「隠された自己」、「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」 や「誰からもまだ知られていない自己」があると考えられています。

自分にもわからない自己があるのですから、お互いを完全に理解するということは不可能です。

それに加えて、Oshoは「独りであること」ということを話しています。

英語では「独りであること」はaloneness(アロンネス)と言いますが、「孤独」(ロンリネス lonliness)とは区別されます。

孤独は仲間や連れがなく一人ぼっちで寂しい気持ちを表わしますが、Oshoは「独りであること」について次のように語っています。

『独り』という言葉には、
 非常な美しさがある。
 あなたは孤独ですらない。
 孤独とは、
 他人を必要としているという意味だ。

 独りでいるとは、
 自分の中に
 完全に根づいているということ、
 自分の中に
 中心を持っているということだ。
 あなたは自分自身で充足している。

もし、独りでいることができなくて、孤独を避けようとして、結婚を求めるとしたら、間違ってしまいます。

孤独である人同士は、決してお互いの孤独を満たすことはできないからです。

私たちは何とかして
他人同士だという感覚をなくそうとする
だから、あらゆる種類の儀式をつくり出してきた

ひとりの男性がひとりの女性と結婚する
だが、結婚とは何だろう?

たんなる儀式だ
だが、なぜ?

他人であることをなくし
何とかして懸橋をつくりたいからだ

懸橋をつくることはけっしてできない
ふたりはただ
これからこの人は自分の夫で
この人は自分の妻だと想像するにすぎない

だが、ふたりは他人のままだ
生涯ともに暮らしても
他人同士以外にはなりえない

誰ひとり
他人の<独りであること>に侵入することはできないからだ

あなたが私の<独りであること>に侵入できるなら
あるいは私があなたの<独りであること>に侵人できるなら
そのとき初めて、人は他人同士ではなくなるー

だが、それは不可能だ
実存的に言って不可能だ

私たちは可能なかぎり近づくことはできる
だが近づけば近づくほど
私たちは他人同士だということに気づく

というのは、近づけば近づくほど
「相手は私にとって未知だ
 たぶん知ることはできない」
 ということがわかるからだ

ゴールド・ナゲッツ」 by Osho

しかし、「独りである」ことのできる人は、結婚を求めることはありませんが、「独りであることのできる人」同士は、結婚よりもさらに親密な交感(コミュニオン)が可能になるとOshoは語っています。

これを別の観点から見てみなさい。
 私はあなたに
 解答を与えているのではない。
 私はどんな解答も与えない。
 私はあなたに、
 ただ見るための新しい観点、
 新しい角度を与えるだけだ。

 自分のことを、
 独りでいられる能力を持った、
 独りでいるだけの強さを持った、
 生まれながらの
 瞑想者だと思ってごらん。

 とても中心が定まり、
 深く根づいているために、
 まったく他人を必要としないのだ、と。

 確かに、
 他人とかかわることはできるのだが、
 それはけっして関係性にはならない。

 関わることは、
 まったく申し分ない。
 ともに独りであるふたりの人間が、
 関わることはあり得る。

 だが、
 ともに独りであるふたりの人間が、
 関係性のなかに入ることはあり得ない。

 関係性とは、
 独りでいることができない者の
 必要性だ。

 ふたりの孤独な人間は
 関係性に陥る。

 独りであるふたりの人間は関わる、
 意志を通わせる、交感する。
 しかもなお独りのままだ。

 彼らの独りは、
 汚されぬままだ。
 彼らの独りは
 まっさらで純粋なままだ。

 彼らは峰のようなものだ。
 ヒマラヤの峰、
 雲の上にそびえ立つ
 高みのようなものだ。

 ふたつの頂上は
 けっして出会うことはないが、
 そこには風を介し、
 雨を介し、
 川を介し、
 太陽を介し、
 星を介してのある種の交感がある。

 そうだ、
 そこには交感がある。
 たくさんの対話がつづく。
 彼らは互いにささやき合うが、
 彼らが独りであることは
 完全なままだ。
 けっして妥協することはない。

 空に独り立つ峰のようでありなさい。
 どうして所属を求める必要がある?
 あなたはものではない!
 ものなら
 誰かのものだ!

 ・・・

 この世の内側の人間になるとは、
 迷子になるということだ。

 世俗的人間は内側の人間だ。
 覚者は
 傍観者にならずにはいられない。

 あらゆる覚者は傍観者だ。
 たとえ群衆のなかにあっても、
 彼らは独りだ。

 たとえ市場のなかに身を置いていても、
 彼らはそこにはいない。
 たとえ関わっていても、
 彼らは離れたままだ。
 そこには、
 つねにある種の距離がある。

 そしてその距離が自由、
 その距離が大いなる喜び、
 その距離があなた自身の空間だ。

 それを、
 あなたは自分を
 はぐれ者と呼ぶのかね?

 あなたは自分を
 他人と比べているにちがいない。
「みんなはたくさんの関係を持っている。
 彼らは恋愛をしている。
 彼らは互いに属し合い、
 内側の人間になっている――
 なのに私ははぐれ者だ。
 どうしてなんだ?」と。

 あなたは無用な苦しみを
 作り出しているにちがいない。

 私のアプローチはつねにこうだ――
 なんであれ神が与えてくれたものなら、
 それは自分の魂にとって
 微妙な必要があるはずだ、
 さもなければ、
 そもそも与えられるはずはない。

 もっと、独りについて考えてごらん。
 独りでいることを祝い、
 自分の純粋な空間を祝いなさい。

 そうすれば、
 あなたのハートのなかに
 大いなる歌が湧き起こるだろう。

 そしてそれは覚醒の歌になるだろう。
 瞑想の歌になるだろう。

 それは、
 独りである鳥の遠い呼び声になるだろう――

 特に誰かに呼びかけるというのではなく、
 ただハートがいっぱいで
 呼びかけたいがゆえの呼び声、
 雲がいっぱいで雨を降らせたいがゆえの、
 花が満ちて花びらが開き、
 香りが放たれようとしているがゆえの……
 宛名のない呼び声に。
 自分が独りであることをダンスにしなさい。」
            
  The Gust by Osho