なぜ人は惨めになるのか?
その根本的な核心が述べられています。
惨めさはエゴを育くむ―ー
だから世界には、
これほど惨めな人々が多い
その根本的な核心はエゴだ
「ゴールド•ナゲッツ」 by Osho
そんなふうに言われてしまうと身も蓋もない、って思います。
だったら、エゴをなくせば惨めでなくなるのか?
ということになりますが、実際エゴをなくせば、惨めさは無くなりますね。
なぜならエゴがなくなれば、惨めに感じる人はそこにいなくなるわけですから。
「惨めさはエゴを育くむ」というのはすごい言葉だな、と思います。
エゴは惨めであることによって育まれ、肥大しているということになります。
惨めであればあるほど、惨めな自分、というエゴが育つわけですね。
そういうエゴを肥大させた人は、惨めさをさらに引き寄せることにもなるでしょう。
惨めであることによって、より多くの人の同情を得ることもできますし、それによってエゴも満たされるということになります。
惨めでいれば、その責任を他の人や、社会のせいにすることだってできます。
自分が惨めでいるのは人が自分を惨めにさせたからだ、社会が悪い、というふうにも思いがちです。
でも、Oshoが言っていることは、惨めでいることでエゴが肥大するなら、惨めであるのはその肥大したエゴが求めていることでもあるので、その惨めさはエゴの責任だ、とも読み取れます。
結局は惨めさはその人が求めていることにすぎない、ということにもなりそうです。
それがわかれば、いつでも惨めさから脱却できるということになります。
惨めでいることをやめればいいだけです。
惨めでいるというその気持ちの持ち方(マインド)を変えれば、惨めでない人生を生きることができるはずです。 惨めなエゴに投資することをやめればいいだけです。
要するに、惨めかどうかが単なるエゴの話なら、惨めな人生を生きたいのか、誇らしい人生を生きたいのかは、自分で決めることができる話です。
ちなみに、みじめという言葉は語源を見ると、「見じ」と「目」からなる言葉で、「見じ」の「じ」は打ち消し推量の助動詞で「見たくない」という意味になります。
「目」は「痛い目にあう」や「ひどい目にあう」というのと同じで経験やある事態に出会うことを表します。
そうだとすると、
みじめは「見たくないような状態にある」という意味で、かわいそうで見るに忍びない、情けない、憐れな様子を表すことになります。
みじめでなくなれば、人からの同情は引かなくなって、逆に嫉妬されたり、足を引っ張られたりする可能性があります。
それなら、惨めでいる方がいい、という選択肢もあります。
いずれにしろ、その根本原因がわかると対処の仕方もわかってきますね。
今日はここまでにします。
えたに