「私は脅威だ」
I Am A Threat – Certainly アメリカでのインタビューシリーズです。
「西オーストラリア州の人々があなたのことを、あなたの人々のことを知りたがっています。あなたはどのような人なのかを説明してください」
というのが記者からの質問です。
「私にはまったくわからない
私はただ 瞬間瞬間を生きている
私を定義することはできない
私を予測することもできない
私自身でさえ、明日の朝、
自分が何をするのかわからない
私はただ、存在そのものと
同じように開かれている
存在そのものと同じように
定義不能だ」
だから人々は、自分の偏見に応じてOshoを定義しようとします。
その結果、Oshoを愛する人もいれば、 Osho を殺したいと思う人もいるわけです。
「あなたは彼らの存在や未来を脅かすのではないですか? 多くの人々が、あなたは脅威だと言っています」
という記者の質問にOsho次のように答えます。
「おそらくそうだろう
あなたが私の言っていることを
理解しなければ 私は脅威だ。
まぎれもなく しかしもし、
私が言っていることを理解すれば、
人々は喜び、祝い、脅威はないだろう」
ではOshoは、どういう人にとっては脅威になり、どういう人にとっては喜びとお祝いになるのでしょうか?
Oshoを脅威に感じる人というのは、過去の宗教の教義や概念や信念にしがみついている人たちです。
キリストや仏陀やモーゼの教えを教義として信じて、その信念にしがみついている人たちにとってはOshoは脅威です。
なぜなら、それらの教義の時代遅れとなった迷信的な部分や虚偽を遠慮容赦なく破壊する威力をOshoは持っているからです。
Oshoの言っていることが真実でなければ、Oshoのことを無視すればいいだけなので、それらの宗教を信ずる人たち、教会などはただOshoの言っていることを無視すればいいだけのことです。
しかし無視できずにOshoのことを脅威に感じるのは、そこに真実があり、自分たちの時代遅れの教えや虚偽の信じ込みが暴かれてしまうからです。
Oshoはキリストや仏陀たちの教えについて多くの話をしていますが、全てを否定しているわけではありません。
彼らの教えの真実の部分を現代という時代に甦らした人がOshoです。
仏陀もキリストも25世紀ないし20世紀前に現れて教えを説いた人たちです。
その時代と今とでは時代も違えば、それを聞いている人たちも違います。
仏陀は対機説法で教えを説いたと言われていますが、教える人々が違えば、教える内容や教える方法も異なります。
Oshoは古くなり時代遅れになってしまった宗教的な教義や迷信、概念やモラルなどをすべて論破してしまっています。
そのことについていけない人たちが、自分の信仰を揺るがされる危険を感じ、Oshoの真実の言葉に脅威を感じるのです。
それらの教義に自己同一化してしまっている人たちは、そのアイデンティティを破壊されてしまう脅威を感じるのです。
いわゆるアイデンティティクリシスに陥るわけですね。
Oshoの言葉を聞いて、その真実をハートで感じとれる人にとっては、Oshoの存在、その言葉のひとつひとつが喜びであり、お祝いになるでしょう。
あなたは、このOshoの話を聞いて脅威と感じますか、それとも喜びを感じますか?
ちなみに、これは日本語の字幕が入っているビデオです。 日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。
今日はここまでにします。
えたに