瞑想は苦しむのが好きなタイプ向きではない

瞑想は苦しむのが好きなタイプ向きではない

Meditation Is Not for the Suffering Type  

人が瞑想に興味を持つときとは、どんなときでしょうか?  

瞑想って、一般的には心安らかになるためという印象があるので、心が乱れたり、感情的になって心を鎮めたいと思ったり、頭が悩みでいっぱいになっているときに、瞑想でもして心を鎮めたいと思って興味を持つのではないでしょうか?  

あるいは、もう少し深刻な人は、人生の意味とかに悩んで、自分は誰なのか、生まれたもののどこから来てどこに行くのか? 

死んだらどうなるのか?などという人生の悩みを解決しようと思って瞑想に興味を持ったりするのではないでしょうか?  

要するに、人生がうまくいっていないときとかに瞑想に興味を持つ人が多いのではないかと思われます。 私の場合がそうでした。

人生で何の悩みもなく、いつもハッピーでいられる人が、瞑想に興味を持つことはあまりないように思われます。  

そもそもお釈迦様だって、王子であったにもかかわらず出家して悟りを得ることになったのは、生老病死の人間の苦しみを見て、それが自分の運命だったら、そういう苦しみから逃れようと思ったからでした。  

あの白隠さんだって、子供のときにお寺で聞かされた地獄の話が怖くて、自分が地獄に落ちないために出家の道を選んだというぐらいですから。  

白隠は「南無地獄大菩薩」という書をいくつも残します。これは彼の出家の動機となった地獄に対する答えとも言えます。  

「地獄とは、人の不安や恐怖心から生まれるもので、そのほかに地獄はない。地獄こそ救いへの道だ」あるいは「地獄に降りて、地獄の中で大菩薩たらん。地獄の中にこそ真の菩薩、救いの菩薩がある」というような解釈があるようですが、要するに「地獄こそ菩薩」だということだと思います。

あるいは地獄があってこその菩薩で、地獄がなければ菩薩も必要ありません。  

心頭滅却すれば火もまた涼しで、人生の今の状況を地獄と見るか菩薩と見るかはその人のマインド次第だと言えるでしょう。

マインドがなければ地獄も菩薩もないわけですから。  

脱線しましたが、要するに、瞑想というのは苦しみを逃れようとしてその道に入ることが多いようですが、今回のOshoはその真逆のことを語っています。  

瞑想は、あなたが喜びを感じているときにするものだ、と。  

あなたが喜びを感じているとき  
それが あなたが 
存在と調和したときだ  

それが あなたが 
木々や月や空を 愛せるときだ  

それが あなたが 
何の妨げもなく  とても簡単に  
自分の中に入っていけるときだ  

瞑想は 苦しむのが
好きなタイプ向きではない  
                         Osho

瞑想は苦しいときの神頼み、というものではないっていうことですね。  

瞑想そのものを楽しむことができるようになったときに、その瞑想の意味がわかってくるようなものだと思います。  

そもそも、苦しみというものは、存在との波長が合わなくなったときに生じてきます。  

瞑想は、その存在との波長をもう一度取り戻すようなものです。  

そして、その存在との波長が取り戻せたときには、瞑想そのものが喜びとなっていくるでしょう。  

それでは、「瞑想は苦しむのが好きなタイプ向きではない」をどうぞ。

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今日はここまでにします。

えたに