瞑想者にとって極めて大切なこと

精神的な探求には、大きく分けて二つの道があります。

瞑想の道と愛の道です。

瞑想は一人で真理を探究していく道ですが、愛の道はスーフィーなどのように他者への愛とか祈りをベースにしています。

どちらかというと男性は瞑想の道を歩みたがりますし、女性は愛の道を歩む傾向があるようです。

Oshoの話を聞いていて、瞑想の道と愛の道があるということを聞いた時は結構悩んだものです。

もちろん瞑想は大切だけど、若い時にはやはり愛というの最大関心事だし。。。。

というわけで愛の道を歩んだりもしたわけですが、愛の道は困難を極めますね。というのは悲観的な見方で、楽天的に見れば、これほど楽しく充実した道はないともいえますが、愛の道に比べれは瞑想は一人でいればいいだけなので、はるかに気が楽です。

とはいえ、結局は愛と瞑想は両翼の翼のようなもので、どちらか一つでは片手落ちです。

瞑想を極めれば愛(慈愛)がそこにあり、愛を極めればそこには瞑想があるわけなので、今から思えば別に悩むことではなかったわけです。それぞれに必要なタイミングや季節があると言えるのかもしれません。

実際今振り返っても、どちらか一つだけの道というのも片手落ちな気もするので、愛と瞑想は両方が必要です。

とはいえ、仏陀などは瞑想の道だけを探求した人だったので、妻も子供も捨てて瞑想の道を極めた人であったわけです。その影響もあってか、伝統的に、瞑想をするにはそういう修行が必要だという固定観念があります。

ところがOshoの元ではその両方がありました。当時は坐禅が瞑想だと思っていたので、最初にOshoに会いに行ってその雰囲気に接したときには大きな戸惑いがありました。

それはともかく、このディヤン・スートラではOshoは瞑想の道を説いていますので、一人であること、沈黙するということこそがその道の重要な要素となります。

というわけで、ここでは一人あること、沈黙することがこの瞑想キャンプでの重要な要素であると説明されています。

その理由は、話すことで失われるエネルギーを保存できるからです。そしてそのエネルギーを瞑想に用いることができるようになるからです。

そして生の真理は群衆の中で過ごしていたのではわからず、完全な孤独の中で、一人でいることの中で、その沈黙を味わうことで得られるものだからです。

そして、他人と話すのをやめるだけではなく、内側のおしゃべりもやんだとき、その内側に語りかけてくる声を聞くことができるようになります。

三番目に、この三日間の瞑想の間、
あなたは今夜までと
同じようなやり方で
生きることはないだろう。

人間は習慣だらけのロボットだ。
もし自分の習慣の範囲にとどまるなら、
瞑想への新たな道は非常に難しいだろう。

だから、いくつかのことを変えるよう、
あなたに提言しよう。

ひとつの変化は、
「この三日間、話をできるだけ
最小限にとどめることだ。

お喋りは最大の不幸のもとだ! 
あなたは自分がどれだけ喋っているか、
気づいてすらいない。

あなたは朝から晩まで、
眠るまで喋り続ける。
誰かに話しかけているか、
話しかける人が誰もいないと
自分に話している。

この三日間は、
絶え間なく喋る習慣を
やめることに意識的でありなさい。

それは単なる習慣だ。
これは瞑想者にとって
極めて大切なことだ。

三日間、できるだけ話をしないでほしい。
敢えて話すとき、それは
純粋なものであるべきだ。

日常のありふれたお喋りではいけない。
実のところ、
毎日いったい何を話しているのかね? 
それには価値があるのかね? 

話さなかったら、
何かよくないことでもあるのかね? 
あなたはただお喋りをしているにすぎない
――
たいした価値はない。

話さないとしたら、
ほかの人の害になるかね? 

あなたの話を聞かないと、
ほかの人は何かを逃した
とでも思うのだろうか?

この三日間、誰ともあまり話さないことを
心に止めておきなさい。
これは途方もなく助けになる。
そしてもし敢えて話すなら、
瞑想に関することに限るといい。

だが、まったく話さないとしたら、
そのほうが遥かにいい
――

できるだけ沈黙していなさい。
わたしは、あなたに沈黙を強制したり、
言いたいことは書いたりというように
厳しくするつもりはない。

話すのは自由だ。
でもお喋りはい
けない。
必要があるときだけ、
意識的に話しなさい
。」

一人静かにいることのできる時間を持つこと。

それが瞑想のひとときです。

それでは今日も、一人静かにあることを楽しみましょう。

えたに