「バルド」というと、「チベットの死者の書」の連想から、死のバルドを連想してしまいがちです。
しかし、バルドには生のバルドがあるということについてはあまり知られていません。
「バルド」というのはチベット語で、「移行」を意味します。
あるいは、ひとつの状況が完了して、別の状況が始まるまでの間隙のことを意味します。
「バル」は中間のことで、「ド」は宙ぶらりんの状態、ないし投げ出された状態を意味します。
「チベットの死者の書」は「バルド・トゥドゥル・チェンモ」といい、バルド(中有)における聴聞における大きなる解脱」を意味します。
これは死後の世界の案内所、ないし旅行記のようなもので、死から死後にかけて、亡くなった人の師あるいは心を分かち合っていた友人が唱えることを目的として作られたものです。
そもそも「チベットの死者の書」の書名は、翻訳者のアメリカの学者エヴァンス・ヴェンツが「エジプトの死者の書」に倣ってつけた書名です。
しかし、バルドの教えは非常に古くからのもので、「ゾクチェン・タントラ」と呼ばれる教えに属しています。
ゾクチェン・タントラは、人間の師たちを超えて、私たちの心の本質の、空のような原初仏にまでさかのぼる体系を持っていて、バルド・トゥドゥル・チェンモは、師パドマサンバヴァによって伝えられた巨大な一群の教えのごく一部で、14世紀にチベット人の幻視者カルマリンパによって再発見されたものです。(「生と死の書」ソギャルリンポチェ)
本来のバルドの教えは、死と再生の中間状態に限らず、私たちの存在すべては、「生」「死にゆくことと死」「死後」「再生」の4つのリアリティからできていて、それを「4つのバルド」と呼んでいます。
悟りに至った視点からはっきりと見て、理解した時には、「生」と呼ばれるものと「死」と呼ばれるものは分離したものではなく、分かち難く結びついているのです。
4つのバルドとは、
・現生の「自然な」バルド
・死の「苦痛に満ちた」バルド
・法性の「光り輝く」バルド
・再生の「カルマによって引き起こされる」バルド
の4つです。
1: 現世の自然なバルド(本有)とは?
これは、誕生から死までの期間なので、今のこの人生のことです。
この期間も「移行」の期間で、生まれる前の状態から移行して、今の人生があり、そして次の死後の世界へと移行している隙間の時間なのです。
これは、チベット仏教のカルマの長さからすれば、この生で過ごす時間はほんの一瞬の「移行」でしかありません。
とはいえ、この期間こそが、教えに親しむことができ、修行を根付かせて次の移行である死に備えるための期間なので、この生のバルドが唯一の、したがって最良の時間であるとチベットのバルドの教えは強調しています
2: 死の苦痛に満ちたバルドとは?
これは、死のプロセスの始まりから、「内なる息」が途絶える瞬間までをいいます。
このバルドでは、死の瞬間における心の本質の出現、すなわち「根源の光明」と呼ばれるものの出現によって、その頂点に達する、というふうに言われていますが、よく臨死体験などを読むと、多くの人たちが死んだ時にお花畑を見たち光を見るという体験をしていますが、このバルドでの出来事ですね。
3: 法性の光り輝くバルドとは?
音と色と光による心の本質の輝きの体験。すなわち光の体験「光明」の死後体験のことです。
死の瞬間に悟りを得る人たちがいますが、この状態ですね。
臨死体験の中にも、そのような光や色の体験が報告されたりもしています。
4: 再生のカルマによってひきおこされるバルドとは?
一般に言われるバルドはこのバルドのことです。
中間状態(中有)と呼ばれていて、新たな再誕生までの瞬間を言います。
日本では死後7周忌に渡って、49日間の法要をします。
チベットの死者の書も、49日間、死後このバルドを無事に通って、次の生に生まれ変わる前にどのようなことに気をつけて、この中有を過ごしていけば良いかという中有の旅行案内のようなものです。
これらすべてのバルドが、それぞれに独自の高い覚醒への可能性を持った期間で、解脱(悟り)の機会はこの生と死を通じて常に絶え間なく起こっています。
バルドの教えは、私たちがそれに気づき、理解し、存分にそれを利用する機会なのだ、というふうに「チベットの生と死の書」のソギャン・リンポチェは語っています。
Oshoの身近な弟子のマニーシャは「死についての 41の質問」の本をOshoの死についての言葉を編集しましたが、同時にOshoのガイドをもとに「OSHO Bardo」というガイド瞑想のCDを製作しました。
日本語版の「Oshoバルド」の瞑想はこちらで入手できます。
これはバルドの瞑想は死後だけのものではなく、この人生を生きていく上でのガイドでなけれならないというOshoのアドバイスに基づいて作られたものです。
今日はここまでにします。
えたに