エゴ(自我)を持つことは、ある程度までの発達段階が必要です。
とりわけ思春期、反抗期はこのエゴ(自我)が育つ時期です。
しかし、いつまでもそのエゴを振り回している人というのは、ある意味で未熟です。
エゴ丸出しの大人は、子供っぽくみなされます。
西洋の個人主義の世界では、このエゴこそが全てというところがあり、どれだけエゴを肥大させるかというところが尊重されているような世界です。
日本は逆で、「和をもって尊しとする」エゴは悪いことで、出る杭は打たれるという集合意識のある村社会で、そこでは逆にエゴが未熟だったりします。
ちょうど果実は十分熟すことで自然と落ちるように、未熟なままそのエゴをもぎ取ろうとするのは無理があって、エゴは熟すことで、そのエゴを超えていくことができるようになるとも言えます。
ところで、そのエゴは「独りで」いることができない、という洞察がここで語られています。
エゴにとって
<独りであること>は、
けっして喜びではない
エゴが喜ぶのは
誰かを自分の配下に従えるとき
「私はあなたより上だ、あなたより偉い」
と言えるときだけだ
エゴはけっして独りであることを喜べない
独りであるなら
エゴを持つことに何の意味がある?
「ゴールド・ナゲッツ」 by Osho
瞑想というのは「独りであること」なので、エゴには瞑想ができない、ということがここで述べられています。
つまり、瞑想とは、エゴを超えて成熟することができてはじめて可能になるものだということです。
逆に言えば、エゴだけの人には、瞑想のことを理解するのは難しいということになるのかもしれません。
瞑想ができるようになるのは、その段階まで成長している必要があるということが言えるのかもしれません。