愛は与えることによって育つ

愛を与えることは
リアルで美しい体験だ
なぜなら
そのとき、あなたは皇帝だからだ

愛を受け取ることは、
非常に小さな体験だ

しかも、それは乞食の体験だ

乞食になってはならない
少なくとも愛に関しては
皇帝になりなさい

なぜなら愛は、あなたのなかの
使い尽くすことのできない質だからだ

愛は好きなだけ
与えつづけることができる

使い尽くされるかもしれない―

または、ある日突然
「何ということだ!
私にはもう与える愛がない」
と気づくかもしれないーー

そんなことを心配する必要はない
愛は量ではない
愛は質だ

しかも、与えることによって育ち
手許にとどめることによって死ぬー

そのような範疇に属している質だ
愛は出し惜しみをすると死んでしまう

だから、大いに浪費家になるがいい!
誰に与えるかを気にする必要はない

「ある性質を持った人だけに愛を与えよう」
などというのは

まさに、けちなマインドが考えることだ

あなたは自分があり余るほど持っていることー
自分が雨雲であることに気づいていない

雨雲はどこに雨を降らすかなどまったく気にしない
ーー岩に、庭に、海にーー
それは問題ではない

雨雲は自らの重荷を降ろしたい
そして重荷を降ろすことは
雨雲にとって計り知れない安らぎだ

だから、まず第一の秘訣は
愛を求めないことだ

「愛をくださいと頼む人がいたらあげよう」
などと考えて待っていてはならない
ただ与えるがいい!

ゴールド・ナゲッツ」 by Osho

「愛は惜しみなく奪う」という有島武郎の愛についての考察があります。

彼は、現実主義となってしまった自分にとっても、愛は神秘だと言います。

「愛という世界は何といういい世界だろう。そこでは白昼に不思議な魔術が絶えず行われている。それを見守ることによって私は凡ての他の神秘を忘れようとさえする。私はこの賜物一つを持ち得ることによって、凡ての存在にしみじみとした感謝の念を持たざるを得ない。」と。

愛は愛する対象を豊かにし、かつまた同時に愛するものをも豊かにします。

「一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何んであるかを知っている、それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。一度この経験をもったものは、再び自分の心の働きを利他主義などとは呼ばないはずだ。他に殉ずる心などとはいわないはずだ。そういうことはあまりにもったいないことである。」

愛は自然に自分の全てを与えながら、同時に相手からも得ているのです。

「愛は自己への獲得である。愛は惜みなく奪うものだ。愛されるものは奪われてはいるが、不思議なことに何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。」

と彼は言います。

例えばダンテ。ダンテが少年の時ビヤトリスに一目惚れをして、ビヤトリスは若くしてこの世を去ってしまいます。しかしその愛から「新生」とか「神曲」が生まれたではないか、と。

「ダンテだけが、秘めた心の中に彼女を愛した。しかも彼は悲しかった。ダンテはいかにビヤトリスから奪ったことぞ。彼は一生の間ビヤトリスを浪費してなお余る程この愛人から奪っていたではないか。彼の生活は寂しかった。然しながら強く愛したことのない人々の淋しさと比べて見たならばそれは何という相違だろう。ダンテはその愛の獲得の飽満さを自分一人では抱えきれずに、「新生」として「神曲」として心外に吐き出した。私達はダンテのこの飽満からの余剰にいかに多くの価値を置くことぞ。」

彼は「愛は奪う」ということについて、次のように語ります。

「見よ、愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することにのみ全力を尽しているのだ。愛は嘗て義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることをゆるしつつあろうともあるまいとも、それらに煩わずらわされることなく愛は奪う。」

「愛の感激……正しくいうとこの外に私の生命はない。私は明かに他を愛することによって、凡てを自己に取り入れているのを承認する。若し人が私を利己主義者と呼ぼうとならば、私はそう呼ばれるのを妨げない。若し必要ならば愛他的利己主義者と呼んでもかまわない。苟いやしくも私が自発的に愛した場合なら、私は必ず自分に奪っているのを知っているからだ。」

愛とは相手とひとつになることです。

そこには相手と自分との境界線がなくなってしまいます。

本当のことを言えば、そこには与えるも奪うもありません。

与えることは受け取ることであるのです。
愛するものはすでに自分でもあるのですから。