マスターとともにいるとはどういうことなのか?
マスターの講話を聞くということはどういうことなのか?
ジョティの経験を通して、そのことが語られています。
そうなのです。マスターとともにいるということは、まさにそういうことなのです。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「マスターに近づくということ」ということをお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 Oshoと一緒にいると時が非常に貴重に思えます。
一日たりともどこかに行ってプーナを離れるようなことはしたくありません。
毎朝、講話のなかでOshoと一緒に座っていられることは、私にとって最高の幸せなのです。
Oshoは私を日ごとに深く沈黙へと連れていきます。Oshoの声は私にとって奇跡のように働きます。
Oshoが語り始めると、目を閉じて、おしゃべりなマインドもすぐに停止します。そしてOshoの声がまるで私のセンターから出てきているかのように内側で反響し始めます。
ある日、Oshoに2、3行の手紙を書いて、講話を聴いている間に得たこの経験を述べました。
私はOshoに「Osho、私にはあなたが何を言っているのか、そして私が何を聴いているのかわかりません。それでも、それは起こっています」と書きました。
Oshoは返事として講話のなかで
「それは、常にそのようにして起こる。
ことばは重要でない。
弟子が火のついていない松明をマスターに近づければ、
マスターの燃え盛る松明から炎が飛び移り火が灯される。
マスタ―は何も失わない、
そして弟子は全てを手に入れる」
Oshoは更に続けました。
「あなたを見ると私は嬉しい。
それはあなたに起こっている。
そしてもっともっと起こるだろう。
この蕾の開花に終わりはない。
毎日どんどん開き続けていくのだ。
この旅には始まりはあるが終わりはない。
だが、後ろを振り返らないように覚めていなさい」
全てをハートの沈黙で聴いていた私は、メッセージを受け取りました。翌日、ボンベイの事務所に退職願いを郵送し、気分は晴れやかになりました。
これまで渡ってきた橋は永遠に壊されてしまったのです。」
今日はここまでにします。
えたに