今思い返せば、この時期にOshoがしていたことは、仕事の総仕上げだったのだということがわかります。
しかし、その渦中にいたときには、そんなにも早く私たちの元を去ってしまうわけがないという希望から、それを見ないようにしていたのだと思います。
でも、やはり「Oshoがそれほど長く私たちといることはないという、ぼんやりとした感覚」は多くの人たちが感じていたことだったのでしょう。
Oshoの肉体がこれほどまでに弱っていたにもかかわらず、Oshoがブッダホールに現れたときのエネルギーの盛り上がりは、そのことを全く感じさせないほどのものでした。
白いローブというのが「インドの伝統では人びとが白い服を着て集まるのは死者が出たときだけなのです」ということは、このジョティの記述を読むまでは知りませんでした。
でも、日本でも死装束は白ですし、今では喪服は黒ですが、昔は白を着ていたようです。
そして、ピラミッドをはじめとするコミューンの建物は全てが黒に塗り替えられていきました。
それらの基本的な設計はすべてOshoの指示であったと聞いています。
そのOshoがデザインしたコミューンの様子はこちらで見ることができます。
それでは、「一万人のブッダたちへの百話」より、「Oshoが肉体を去る前に準備したこと」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 私にはOshoがそれほど長く私たちといることはないという、ぼんやりとした感覚があります。
Oshoが私たちに、白いローブを着てブッダ・ホールに出てくるようにというメッセージを送ったときには大きな動揺を覚えました。インドの伝統では人びとが白い服を着て集まるのは死者が出たときだけなのです。
そしてコミューンの建物の全てが黒に塗り替えられているのを見て、また別のショックを受けました。
最後の禅の講話シリーズでは、Oshoは瞑想のみを強調し、講話を話し終えた後で私たちをより深く瞑想へと導いています。
私にはOshoが仕事の総仕上げをしているように感じられます。
1989年4月、Oshoは再び話すことをやめました。
ブッダホールには私たちと20分間沈黙のなかで座るために出てきています。Oshoはこれまで以上にもろく見えます。
それでもOshoはブッダホールに入ってくるときと出ていくときには必ず、ポーディアムの上であらゆる方向にゆっくりと向きを変えながら、ナマステをしていきます。
ときにOshoの足が震えているのが感じられ、私のハートは「お願いですOsho、このいっさいが必要ないのです。身体にそんなに負担をかけないで下さい」と叫びたくなります。
しかしOshoは決してやめません。Oshoは毎日出てきて、OshoのしたいことをOshoのしたい方法でしながら、どんどん続けているのです。」
今日はここまでにします。
えたに