マインドが恐れるもの

Oshoの言葉:

マインドが恐れるもの

マインドは臆病者だ、
そして臆病者でなければならない
なぜなら、マインドには
なんの実体もないからだ

マインドは空っぽで、空洞で
あらゆるものを恐れている

そして基本的には
いつかあなたが
気づくのではないかと恐れている

その恐怖が人々を瞑想から遠ざける

私のように、瞑想に関することや
気づきや目撃のやり方を
広めようとする人々を敵に回す

彼らは私に敵対するようになるが
それは理由がないわけではなく
彼らの恐怖には十分な根拠がある

マインドは、より多くの気づきを
生み出すことができるものに

近づくことを本当に恐れている

それがマインドの
終わりの始まりとなるからだ

それがマインドの死になるだろう
          Osho

Oshoはしばしば、思いもよらないことを
言って驚かされます。

しかし、その言葉に耳を傾ければ、
なるほど、そういうことかと納得させられます。

そこにある種の真理が感じられるからです。

マインドが恐れているもの。
それは気づきだ、
というのです。

なぜなら、
それはマインドに死をもたらすものだからだというのです。

そして、なぜ多くの人々がOshoのことを恐れるのか?
という理由がそこで明らかにされます。

なぜなら、それはOshoが気づきを人々に教えているからだ、
というのです。

マインドの中で生活している人たちにとって、
そのマインドを失いたくないので、
Oshoに反対するのだというのです。

Oshoを脅威に感じる人にはある特徴があります。

それは、Oshoに耳を傾けることで、
今まで自分が信じてきたことが
揺るいでしまう危険性があることを恐れる人々です。

なぜなら、Oshoはそれらの
これまでの社会の既成概念を
根こそぎに批判してしまうからです

ここで、Oshoはマインドとはどういうものか
について、語っています。

瞑想するにあたっては、
瞑想について理解しておくことが不可欠です。

マインドから見れば、
瞑想は役立たずで、時間の無駄です。

しかし瞑想を知っているOshoから見れば、
その逆で、

マインドには実体がなく、
空っぽで、空虚であるが故に
マインドは瞑想を恐れている、
というのです。

もし仏陀が瞑想によって悟りを得たという物語がなければ、
私たちが瞑想の存在を知ることさえできなかったかもしれません。

そして、Oshoがこれほどまでに瞑想の価値を私たちに語り、
マインドを超えた世界の魅力を示すことがなければ、
私たちがこれほど瞑想に取り組むこともなかったかもしれません。

Oshoは、瞑想について語るのは、
川のそばで水を売るようなものだ、
と言っています。

瞑想を人々に紹介するのは、
エスキモーに氷を売るよりも難しいかもしれません。

そんな瞑想を私たちにこのように紹介しているのは、
セールスの天才だと言えるでしょう。

それは、Oshoが私たちのマインドを熟知しているからです。

> なぜなら、マインドにはな
んの実体もないからだ。

私たちから見れば、
マインドほどパワフルなものはない、
と思われます。

マインドがパワフルな人ほど、
この社会で評価され、この現実を
うまく生きているように思われます。

しかし、マインドの世界だけで生きていると
そこにはある限界を感じます。

そこには何か、本当に大切なものが欠けているように思い、
どんなに社会で成功し、お金を得たとしても、
人生が空虚で虚しく感じてしまう瞬間が訪れます。

それはなぜか?

それはマインドには実体がなく、
空っぽで空虚なものだからです。

そのことに気づくのは、
気づきの目をマインドに向けたときです。

そこで、マインドは、そのことがバレないように、
瞑想を恐れるのだ、
とOshoは言うわけです。

> その恐怖が人々を瞑想から遠ざける、
> 私のように、瞑想に関することや、
> 気づきや目撃のやり方を
>広めようとする人々を敵に回す。

このようなマインドの深い無意識を理解しておくことが
瞑想を続けていく上では、大切です。

私たちが瞑想をしなくなってしまうのは、
このようなマインドの無意識の策略にもよるからです。

今日はここまでにします。

えたに