実存的な放浪者(ジブシー)


私はあなた方全員に実存的な放浪者
(ジブシー)になってもらいたい
根は必要ない一 あなたは樹ではない
あなたは人間だ

ゴールド•ナゲッツ」by Osho

Oshoの弟子の人たち(サニヤシン)はまさにジプシーのように世界を放浪しているような人たちが多くいました。

会社勤めをしている人というのは少数派で、社会から見ればはぐれもの。
でも、サニヤシンたちはお金は持っていなくても(超金持ち、っていう人たちも多くいましたが)、彼らが住むところは、世界でも人気スポットだったり、憧れの場所だったりします。

世界にあまり知られていない場所だったのに、サニヤシンたちが住み始めると、そのあと5、6年経つと人気のスポットになっていたりすることもよくありました。

Oshoの瞑想リゾートのあるプーナだって、デカン高原にあって、インドの高級避暑地で、超チッチな人たちのお屋敷がある地域にあります。

多くのサニヤシンが住んでいるセドナだって、今でこそ日本人でも知っていますが、私が初めて訪れた1998年ごろは、アメリカのワシントンDCにあったウエスティンホテルのコンシェルジェに聞いても、すぐにはわからなかったぐらい無名の場所でした。

ハワイだったらマウイ島だったり、オーストラリアだったらバイロンベイだったり、サンフランシスコだったらサウサリートとか。
世界の各地に中華街があるように、おしゃれなリゾート地などの一等地にサニヤシンたちが多く住んでいる場所があったりします。

それはともかく、「実存的な放浪者(ジブシー)」というのは、もっと内面的な、精神的な意味ですね。
ブッダの教えとして、法華経に「化城宝処(けじょうほうしょ)」(化城喩品)というお話があります。

宝のある場所(宝処)に向かって遠路(五百由旬の道のり)を旅する多くの人々に仮の城を出現させながら、一息つかせて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導いた、というお話です。

五百由旬の道のりは仏道修行の厳しさや困難を表し、化城は二乗の悟り、宝処は一乗の悟りを表していると言われています。
仏の導きによって一時的な悟りに満足せずに仏道修行を続けて、最終的な悟りを得ること説いています。

法華経では、遥か昔の大通智勝如来の時代に、仏法を信じられず修行を諦めたひとたちが、再び仏陀(お釈迦さま)の時代に生まれて仏に出会い、四十余年の間、様々な教えを聞いて、また修行をして真の宝となる教えに到達させることを説いているということです。

それはちょうど、今の時代にOshoに出会って、彼の教えを聞いた、ということなのかもしれません。 いつの時代にも、そのような仏陀のように、導く人がときとして出現するのでしょう。

昨日のブログに紹介したOshoの言葉、

宗教性とは
あなたを上方に引き上げるものすべて一一
今あなたがいる場所にとどまらず
まだ先があることをつねに想起させるもの
すべてを含んでいる

あなたが休息、のためにとどまるところは
すべて一夜の宿だ一ー
朝になれば、私たちは
ふたたび巡礼の旅を続ける
それは永遠に続く巡礼の旅だ

巡礼の旅に終わりはなく、実存的な放浪者(ジブシー)であることが人間であることの宿命のようです。 

今日はここまでにします。

えたに