朝がやってきた

Oshoの言葉

朝がやってきた

朝がやってきた
朝がドアをノックした
あなたは気づいている
その気づきはまだ脆く、
とても繊細だ

あなたは再び
眠りに落ちることができる

そうだ、その可能性はある
しかしそれでもあなたは気づいている
            Osho

Oshoはここで、

気づき始めたことを、朝の目覚めに例えています。

気づきがやってきた
気づきがドアをノックした

でも、その気づきは、
まだ脆く、とても繊細だ

再びその気づきを失って、
無意識の眠りへと、落ちることができる

その可能性は大ありなんですが、
でも、今のあなたは気づいている。

その気づきを保てるように、
毎朝のモーニングコールとしての
Oshoの言葉です。

おはようございます。

今あなたは気づいていますか?

でも、どうして、私たちは、
気づく必要があるのでしょうか?

眠っているって、心地よいですよね。
目覚まし時計で起こされたくはないですね。

まどろんで、心地よい布団の中で眠っていたい。

それなのに、モーニングコールのメッセージを
人々に届けようとしたがために、
Oshoは迫害され、アメリカ政府に毒殺されることになりました。

最近シュンニョの「和尚とのダイヤモンドの日々」
についてのブログを読み返していて、
次のような記述がありました。

Oshoは語ります。

「おそらく私たちはこの美しい惑星が、
そのすべての美、
すべての生命、
すべての偉大なる努力の結果をもろともにして
終末を迎える日を目前にしているのだろう。

希望の光はどこにも差していないようだ。
そして、こうして私が語るとき、
語っているのは私ではなく、
人類とその未来に希望を失った存在
(イグジスタンス)なのかもしれない。

私がまだ夢をかけている唯一のもの、
それは私の人々だ。

この惑星はおそらくもう救えないだろう。

だが、意識的になろう、
光明へのあこがれをつくりだそうと
みんながすこしばかりの
努力をするならば、

すくなくともその人たちだけは
救われるだろう。

だが、あなたがたも世界の大衆
のようにふるまいづけるなら、

あなたがたにかけられた
使命も失敗に終わる。

あなたがたにはとほうもない責任がある。
ここを除いては
世界のどこにも、
光明を得よう、瞑想的になろう、
愛とよろこびに満ちあふれようと、
ともに試みる人たちの集まりはない、

どんな小さな集まりだろうとないからだ。
私たちは世界という海のなかにある
ほんの小さな島にすぎないが、

それは問題ではない。

あなたがた、
わずかな人々だけでも救われたなら、

人類のすべての遺産、
すべての神秘家と覚者たちの遺産が、
あなたがたを通じて救われるからだ。

この惑星は死ぬのならば、
たぶん別の惑星で……。
生命を育むことのできる
五万の惑星がある。

文明は別の惑星で
ABCから始まりなおす
必要があるのかもしれない。

だが、だれが開拓者になる?
完全に無意識な暗愚な大衆、
彼らは開拓者にはなれない。

光に向けて、永遠の生命に向けて、
神性のなんらかの体験に向けて
みずからをふさわしいものに
するために大きな努力をした、

選ばれた少数の者たち――
おそらく彼らだけが、
宇宙のどこか別の惑星に、

新文明を生みだす者になるだろう。

私は以前にはけっして
こんなことを言わなかった。

だが、世界を旅するうちに、
私はハートに深い痛みを
感じるようになった。

救いを必要とする人々みずからが、
救いを拒否して、
ありとあらゆる障壁を
つくりだしているのを知ったからだ。

彼らに近づくことさえ不可能になった。
そして全世界を見たうえで、
私はもはやひとつの可能性しかないと
感じるようになった。

私の近くに来た少数の者たちの
意識のなかにノアの箱舟をつくること。

ただしそれは物理的なものではない。
意識的な人々の小集団を
別の惑星に移すための、

意識におけるノアの箱舟だ。

人類の偉大な遺産を救うには
それが唯一の方法だと思える」

これはOshoが20年前に語った言葉でしたが、そのこだまはまだ鳴り響いていたのです。
https://oejbooks.com/2015/08/29/the-noahs-ark-in-consciousness/

ここでOshoは次のように語っています。

>だが、世界を旅するうちに、
> 私はハートに深い痛みを
>感じるようになった。

> 救いを必要とする人々みずからが、
> 救いを拒否して、
> ありとあらゆる障壁を
>つくりだしているのを知ったからだ。

Oshoがアメリカを出て、ワールドツアーをした際に、
20を超える国々に、入局拒否をされ、

短期間滞在を許された国からも、
酷い扱いを受けて、国外退去を求められました。

それらのプロセスを振り返って、
このOshoの言葉を読むと、胸が痛みます。

それはOshoが、残された私たち、
人類のことを思って
胸を痛めていたことがよくわかるからです。

それでも、この今の世界の状況を見ると、
Oshoが言っていることがよくわかります。

私たちは、ますます無意識の中へと
落ち込んでいっているようです。

この世界の状況は見るに耐えない、ということは、
毎日、この世界に気づきをもたらすための情報を届けるたびに思います。

でも、それらの世界の状況は、私たち自身の反映でもあるのです。

見たくないからと言って、見ないで済ませることのできるものでもありません。

それが私たちの現実でもあるのですから。

そこに気づきをもたらすことができるのか、

それは自分自身に気づきをもたらすことと同じだと、思っています。

気づきを少しでももたらすことができるのでしょうか?

朝はきたのでしょうか?

今日はここまでにします。

えたに