今回のOshoの講話は、人を救うやり方についてです。
仏陀の教えは待機説法だと言われています。
同じことを言うにも、その相手によって説明が異なります。
ですから、同じことについて話すときにも、話す相手によって、ときには矛盾したことを言っていたりすることがよくあります。
イエスと仏陀の教え方についても、彼らに従う人たちが異なれば、当然教え方も異なってきます。
たとえば、イエスは神について話しました。
仏陀は神については話していません。
イエスは「求めよ そうすれば与えられるだろう」というふうに教えています。
しかし仏陀は求めること自体に否定的です。
求めることは欲望や煩悩であり、求めることが苦しみを作りだす、という教え方をしています。
違ったことを言っているようですが、でも実は同じことを話そうとしていて、ただ話す相手の人たちが、お国柄や教養のレベルなどが違っていて、その人たちが理解することのできる方法で話していただけの話です。
イエスの身近な弟子の人たちは、漁師やごく一般の庶民の人たちです。
仏陀の十大弟子を見ると、それぞれの弟子が道を究めるような叡智を持った人たちで、しかも、自分の弟子を多く持っていた人たちがいたりします。
生老病死についての悩みを持った人たちへの救い方、アプローチの仕方もイエスと仏陀でとは、ずいぶん異なってきています。
イエスは奇跡を起こして病人を救い、自分が死んでも復活で蘇っていたりします。
しかし、仏陀はそのような奇跡は起こしませんでした。
仏陀には仏陀の教え方があったようです。
このような話が伝えられています。
ある未亡人のひとり息子が死んでしまいました。
自分の唯一の希望であったひとり息子を亡くして、半狂乱になって仏陀に助けを求めます。
「あなたは偉大な聖者さまです。
あなたに祝福していただければ、
この子は生き返るでしょう」
仏陀はその未亡人に言います。
「そうしてあげよう。
ただ、ひとつだけ条件がある」
その条件を満たそうとしたその未亡人は変容を遂げて仏陀のもとに戻ってきました。
Oshoは語ります。
イエスは癒す
物語は彼が死人を蘇らせると伝えている
おそらくそれが彼のやり方だ
それが彼のユニークさだ
その方法で彼は人々に理解させようとしている
人生とは、ただ食べて、飲んで、
酔って浮かれるだけではないことを
人生にはそれ以上の何かがある
それ以上の神秘がある
俗事だけで 人生を浪費していてはいけない
私はあなた方に永遠の命の道を示すことができる と
それがイエスのやり方だ
だが誰に決めることができるだろう
仏陀のやり方が間違っていると
おそらく それはより洗練されていて
もっと教養のある人々のためのものなのだ
それではOshoの語りをお楽しみください。
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今日はここまでとします。
えたに