Oshoはなぜ3日前に殺されたのか?

前回のお話の続きです。

これはOshoの700年前の過去生でのお話です。

「前回の生であと3日を残すばかりとなったとき、
わたしは殺された。
ほんの3日前に殺されたために、
21日間を完了することができず、
3日間がやり残しになってしまった。
今生で、その3日間を完了したわけだ
(4日目にはじめて乳を飲むことで)

この殺人は、「敵意や悪意からくるものではなかった」とOshoは語っています。

「ユダは、実際にはイエスに対して
何の敵意も抱いていなかったにもかかわらず、
長いあいだイエスの命を狙っていた。

私を殺した人間も、
私に対して何の敵意も持っていなかった。
敵意を持っていると思われて、
敵として扱われたがね」

その殺人は重要なものとなった。
死に際して、その3日間が残されたのだ。

前回の生において
光明を目指す大きな努力をしたおかげで、
今生では、その3日間で達成できたはずのものを
21年かかって成就することができた。

前世のその3日間の1日について、
今生では7年間を費やさなければならなかったわけだ」

 Dimension Beyond the Known

これは様々なことを考えさせられる言葉です。

一つは、このOshoの殺人は殺意からのものではなく、Osho自らの決意によるものであり、そのためにOshoはそのことを知って、わざと殺された、ということになります。

しかも、それはイエスを殺したユダも同じだというのですからびっくりです。

もしイエスがユダの裏切りがなく、十字架にかけられなかったとしたら、キリスト教はここまで普及することはなかったでしょう。なぜなら、そのシンボルの十字架がなくなってしまいますから。

でも、キリストの場合は、処刑される際に、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(Eli, Eli, Lema Sabachthani)「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」とい言ったとされているので、もしそうだとすれば、キリスト自身ではなく、神が仕組んだことになるのでしょう。

しかし、Oshoの場合は、「新しい人間を生みだす可能性のため、また戻ってきてそのときに集っていた弟子たちと真理を分かち合い、彼らの意識を<目覚め>の境地にまで導くことを約束して、幾多の生にわたり、力のかぎりめざしてきた究極の成就を目前にして、彼はふたたび人間の肉体に戻る決心をした」ことにより、意図的に殺させたことになります。

仏陀がマイトレーヤとして戻ってくる約束をしたようなものです。

そして、実際に、Oshoはは700年後に再び生を受け、今生では21歳のときにその究極の光明を得て、東洋と西洋、肉体と魂、物質主義と精神主義のあいだに統合をもたらす大きな可能性のために道を説いたのです。

40年間の間になされた彼の講話は600冊以上の書籍、映像、音声となって残されています。

それは仏陀やキリスト、老子などと同様に、人類の叡智とも言える言葉の数々ですが、それは単なる今生だけで得た知恵ではなかったことになります。前世からの約束だったのです。

そして、今回Oshoの元に集った人たち、それは当時もOshoとともにいた人たちでもある可能性があるということも示唆しています。(これについては興味深いお話がありますので、機会があればお話しします)

また、もう一つこの話から考えさせられることは、Oshoの今生での悟りは偶然のものではなかった、ということです。

つまり、今生の悟りは、すでに過去生において、何生にもわたり光明を目指す大きな努力をしてきた結果だというのですから。

もしそうだとすれば、人が持っているいろんな才能というのは、今生に生まれてからのことではない、という可能性さえあります。

過去生を認めるかどうかというのは、人それぞれの考えがあるでしょうが、この宇宙の成り立ちや人の人生というのは不思議に満ちています。

次回は、ではどのようにして、Oshoは700年前、ということがわかったのでしょうか?

それについても彼は丹念に答えているのですが、それもまた不思議に満ちた世界です。

それはまた次回に。

今日はここまでにします。

えたに