700年前の過去生を計算する方法

これまで、何度かに渡って、Oshoの700年前の過去生について語ってきましたが、何度も言いますが、Oshoは過去生があるとも、ないとも言っていません。

別の言い方をすると、あるときには、過去生があるといい、あるときには過去生なんてないとも言っています。

Oshoが語っていることは大抵がそうです。イエスのことを最大限褒めちぎったかと思うと、あるときにはボロクソにけなしたりもします。

Oshoの言葉だけを読んでいると、矛盾だらけです。

大学の哲学教授であったにもかかわらず、哲学については信じていません。思弁的なものについては否定的です。

Oshoが語っていることは、公案のようなものです。

公案とは何かというと、頭で考えてわかるものではなく、頭を落としたときに初めてわかるものです。

つまり、それを体験したときに、「あ、そうか」ってわかるようなものです。

なので、Oshoが語ってくれていることというのは、すべてが、自分が体験するためのヒントなのです。Oshoはそのために語ってくれています。

Oshoの言葉を信ずることはできません。

それは自分がそれを体験してみて初めてわかることでもあるので、それまでは、ただの参考文献です。

以上を前提に、以下のことも読んでください。

眉に唾をたっぷり塗って、読んでくださいね。

これはOshoが語る、彼の体験なのです。

もし、Oshoに700年前の過去生があったとしたら、どうやってその時間の感覚を計算したのでしょう?

時間測定は肉体があってはじめて成立する。
肉体を離れたところでは、
700年だろうが7000年だろうが
なんの変わりもない。
その差は肉体を獲得してはじめて現れるのだ

 Dimensions Beyond the Known

そこで彼がとった方法というのは、前世で彼と共にいた人で、それから何度か生まれ変わってきたと思われる人を観察することによってでした。

たとえば、ある人を
700年前の私の人生で知っていたとしよう。
その時から今までは、
私にとってはギャップがあったが、
その人の方は10回の過去生の記憶がある。
その記憶をもとにしてはじめて、
私は自分がどれくらい肉体を持たずに
いたかを算出することができるのだ

Dimensions Beyond the Known

う〜ん、今世の記憶でさえ定かではない私にとっては、想像を絶する話です。

そんなことよりも、今の私にとっての課題は、今を生きることであり、死に対してどう立ち向かうかということです。

そのために、自分の瞑想を深めることです。

こういうOshoが語っている世界というのは、瞑想を十分深めた人にとってのもので、それ以前に過去生を信ずる信じないということを言っても、あまり意味がないように思います。

過去生に意味があるとすれば、それは今の人生の意味を知るのに役立つ限りにおいてです。

今の人生の生と死を知ることだけで、精一杯です。

「ひとたびあなたが学んで、
生のすべてが瞑想となったら、
瞑想のことはすべて忘れてしまいなさい。
生が唯一の法に、唯一の瞑想になるに
まかせることだ。
そうなれば、時間は消える。

そして覚えておくがいい。
時間が消えるとき、死もまた消える。
そうなれば、
あなたは死を恐れはしない。
」(2-2)

「死について 41の答え」

 今日はここまでにします。

えたに