アメリカに建設されていたコミューンがどうして破壊されなければならなかったのか?
そのことにどうして私がこだわるかというと、そこはあまりにも美しい楽園だったからです。
天国があるとすればまさにそこがその場所でした。
人々は愛と喜びとダンスにあふれていました。
それを象徴するのは「ドライブバイ」と呼ばれる、OSHOのドライブのときに生まれたセレブレーションです。
それは誰が仕組んだわけでもなく、誰からともなく、ただ自然発生的に生まれたものでした。
ただ沈黙のなかにいて、毎日ドライブに出ていたOSHOに、ある日、あるサニヤシンたちのグループがOSHOのために音楽を演奏しました。
それがまたたくうちに、毎日のドライブバイという、OSHOとのセレブレーションへと発展していったのです。
OSHOのいたコミューンとはそのような人々の場所でした。
シュンニョはその様子を次のように書いています。
「月日がたつにつれ、サニヤシンたちのエネルギーは押さえきれないほどになりました。
OSHOが車で通り過ぎる時に、道路脇でナマステの挨拶を送るだけでは物足りなくなってきたのです。
ある日の午後、イタリア人のサニヤシンたちの小さなグループが道路脇に並び、車で通り過ぎるOSHOのために音楽を演奏しました。
OSHOは数分のあいだ車を停め、それを楽しみました。
それから一週間もたたないうちに、赤い服のミュージシャンが谷間の道路にびっしりと並び、歌い、踊るようになりました。
ほこりっぽい道ぞいに続き、ラジニーシマンディール(瞑想ホール)の前からラジニーシプーラムの「ダウンタウン」を通り抜け、丘の上まで続いていました。
これは、その後2年間、皮膚がただれそうな猛暑の日にも雪の日にも、毎日行われるワイルドなセレブレーションのはじまりにました。
それは自然に起こった喜びの爆発でした。
OSHOへの愛をあらわしたい人々が、彼らに可能な唯一の方法でそれをあらわしたことにより、そうした爆発が起こったのです。
世界中から楽器がぞくぞくと届くようになりました。
いちばん人気があったのは大きなブラジリアン・ドラムです。
ほかには、フルート、バイオリン、ギター、タンバリン、大小様々なシャイカー、サキソフォーン、クラリネット、トランペッ度など、ありとあらゆる楽器がありました。
楽器を持たない人たちは、歌ったり、飛びはねたりしました。
OSHOは弟子たちの愉快な姿を見るのが大好きでした。
OSHOは超低速で運転したので、ロールスロイスのエンジンには特別なチューニングが必要になりました。
彼は音楽にあわせて腕を動かし、しばしばだれかの前で車を停めました。
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インド人のグループが歌うキルタン(献身歌)からブラジル音楽まで、音楽の種類はいろいろでしたが、それでもとほうもない調和がありました。
喜び祝う人々の列をOSHOの車が抜けるのに、2時間かかることもありました。
OSHOには、トータルに喜び祝っている人たちを素通りすることはできなかったのでしょう。
上下に揺れる車のなかで、OSHOはずっと腕を降りつづけていました。
私は彼の腕の強さに驚きました。
「ドライブバイ」と呼ばれるようになったこうしたセレブレーションには、かつてのエネジーダルシャンに劣らぬ親密な雰囲気と高いエネルギーがありました。
ときどき私はOSHOの車に同乗しましたが、そういうときには、みんなの顔がよく見えました。
この惑星を救う理由があるとしたら、まさにこれが理由です。
列のなかにいる人たちには、自分自身がどれほど美しいか想像もできなかったでしょう。
私はしばしば圧倒されて涙を流しました」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)