OSHOとはいつも会えるとは限りません。
そして会える人たちは限られています。
OSHOは1981年アメリカに渡る前に沈黙に入り、側近の人たち以外と話すことはなく、それもさえも限られていて、1985年に話しはじめるまでの間、公に話すことはありませんでした。
そしてまた再び、ギリシャを離れてワールドツアーに出たときには、その行き先さえわからず、多くの国から入国を拒否され、OSHOは行方不明に近い状況となり、OSHOはといえば文字通り飛行機のなかで暮らし、無事に着陸できる場所を探していました。
サニヤシンの人たちはOSHOの身を案じつつ、ただ待つことしかできませんでした。
しかし、OSHOとその弟子のサニヤシンの人たちというのは不思議なつながりがあります。
OSHOとその弟子の人たちというのは、一人一人が違ったつながりを持っています。それはその人の瞑想しだいということがあるかと思います。
サニヤシン同士はといえばフェロートラベラー(旅する仲間)ではあっても、宗教のような組織があるわけでもなく、教義もないので、それぞれは全く別個ではあるのですが、どこかで深いつながりを感じていたりもするものです。
恋人だと恋敵になってややこしくなるのですが、この場合は恋仲間というか、同じ人を深く愛していることでのつながり、OSHOの愛のなかでのつながりのようなものです。
そしてOSHOとサニヤシンの間にも、なにか言葉を超えたつながり、シンクロニシティがあったりするのが不思議です。
シュンニョは書いています。
「私たちはケンジントン地区のアパートの一室に落ち着き、そこで二週間のあいだ静かに待ちつづけました。
このワールドツアーの時期には、世界中のサニヤシンが沈黙のうちに待ちつづけたのです。OSHOの弟子たちは、世界中のどこにいて、それぞれが外側的にはどれほど違う生活をしていようが、内面の旅においてはみんながいっしょに動いています。
OSHOが文字通り飛行機のなかで暮らし、無事に着陸できる場所を探しているあいだ、私たちは、だれも似たような内面的な危機と挑戦を経験していたと思います。
私たちのOSHOとのつながり、そしてOSHOを通じてのお互いのつながりはひじょうに深いものなので、私たちは一体になり、ともに動いているのだと思います。それは時空の隔たりとは無関係です。
OSHOの隣に座っていようが、一万マイルの彼方にいようが、弟子とOSHOとのあいだの隔たりは、その人の瞑想にかかっています。
OSHOが毎日講和していたころのプーナには、あきらかに集合無意識が存在していました。私たちはみんなつながっていて、だれもが同じような感情や変化を体験していたのです。
同一の考えを共有していたことさえあります。
OSHOが講話でだれかの質問に答えたとすると、それはそのまま自分がしたいと思っていた質問だったりするのです。
そんなことはよくありました。
また、前の晩に友だちと議論していた問題について、つぎの日OSHOが話してくれるということもしばしばありました。同じような経験をしたという話はたくさんの人から聞きました。
それはとても不思議でした。まるでOSHOが地獄耳をもっているかのようでした」
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)