OSHOがワールドツアーのあとにボンベイ(ムンバイ)にしばらく滞在したあと、そこから車で数時間のプーナに戻ったのですが、そこは1974年から1980年までの間、OSHOの瞑想アシュラムがあったところです。
OSHOはジャバルプール大学で9年間哲学教授を務めた後、大学を去り、インド各地を旅しながら遊説してまわり、ときには数万人の人々を前に話をしたりしていました。
1974年にはプーナに定住し、そこに訪れる人々だけに講話をするようになりました。
それは遊説によって多くの人々に話し、そこで本当にOSHOの話すことに興味を持ち、実際にワークする準備のある人たちに働きかけるためでした。
そこでOSHOは講話をし、ダルシャンをし、個人的な質疑応答の機会を設け、ネオサニヤスというOSHOの弟子を取ることをはじめたのです。
サニヤシンというのは、インドの伝統的な宗教により何千年もの間使われてきたもので、修行僧ないしは世捨て人のことをいいますが、OSHOはその伝統の概念をまったく破壊するようなサニヤシンを作りだしたので、OSHOの弟子の人たちはネオサニヤシンと呼ばれたりしていました。それゆえに、伝統的な宗教界や伝統を重んじる社会からは猛烈な反発を受けてもいたのです。
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それは2500年前のインドでのお釈迦さまの場合も同じです。お釈迦さまは身分を問わず弟子を取るなど、それまでのカースト制度に反したことをしました。
さらに女性の出家を認めるなど、それまでの伝統を打ち破る行動までして、ついには毒キノコで暗殺までされてしまった(とみるのが妥当だという説がある「お釈迦様の脳科学」苫米地英人」)のですから、OSHOにもそれに似たところがあります。
ですから、OSHOがアメリカを追いだされ、世界を旅するワールドツアーのあと、もといた古巣のインドのプネに戻った際にも、このようなインド政府をはじめとする様々な嫌がらせに巻き込まれてしまったのには、それなりの背景があるのです。
それはともかく、そのOSHOがもといたプネの瞑想アシュラムに戻り、これから瞑想を教えていこうというときに、警察がのこのこと乗り込んできて、「行動規範」なるものを提示したのですから、OSHOからすれば、とんでもない暴挙であり、それに対するOSHOの対応は徹底したものでした。
獅子の咆哮とはまさにOSHOのことです。
シュンニョは書いています。
『警察署長は令状の取り消しを拒否しましたが、彼がアシュラムに対して提示した 「行動規範」ともいうべき諸条件を受け容れるなら、令状の執行を猶予しようと言いました。
それには14の条項があり、そのいくつかは、OSHOの講話の内容と時間を制限するものでした。講話のなかで宗教に反対する 意見を述べたり、人を挑発したりしてはいけない。
外国人の弟子でアシュラムに居住できるのは百人まで、間をくぐって訪間できるのは千人までに制限すること。外国人の名前はすべて、警察に報告すること。
一日あたりの瞑想の回数と、それぞれの瞑想の時間の長さまで決めてあります。警察はいつでもアシュラムを訪間できる、講話にも警官の出席を許すこと。そんな条件までありました。
OSHOはこれらの条件に、獅子の咆嘩をもって応じました。講話で次のように話したとき、彼には火がついたかのようでした。
何万人もの人々がそのために命を失った自由というのは、
つまりはこんなものだったのだろうか。
ここは神の寺院だ。1時間以上瞑想してはならないなどと、
私たちに言えるものはどこにもいない。
私はすべての宗教に反対する意見を述べるつもりだ。それらはすべて偽物であって、真実の宗教ではないのだから。
もしも彼になんらかの知性があって、これに反論できるというなら、彼をここに歓迎しよう。
……
私たちは国家を信奉しない。民族を信奉しない。私たちにとっては、誰も外国人ではない警察がアシュラムに入るということについては、次のように言いました。
だめだ。ここは神の寺院だ。
あなた方は、私たちの指示に従って行動しなければならない。
警察署長と寝室に押し入ったふたりの警官が解任されなければ、彼らを法廷に連れだすことにしようとOSHOは言いました』
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)