1987年当時、私がプーナの瞑想アシュラムに滞在していたときにも、OSHOがいつ講話に現れ、いつ現れないのかは予測できない事態になってきていました。
そしてOSHOの血液や毛髪などが専門家によって検査されていることなども噂になっていました。
OSHOの衰弱や痛みなどの身体的症状の原因は、OSHOがアメリカ政府により身柄を拘束され、理由もなくたらいまわしされたときにタリウムの毒を与えられたとしか考えられないことが明らかにされたのでした。
そのことが、OSHOが「アメリカに行ったことで私のワークはだいなしになった」と言っていることの意味だったのです。
そしてOSHOが肉体を離れた今も、私たちと変わりなく生き生きとかかわり続けていることができるのは、OSHOが私たちに伝えてくれているものは「ハートからハートヘの伝達」にほかならないからなのです。
それは、ハートさえ開けばOSHOからの「ハートからハートヘの伝達」は、今も変わりなく起こりつづけているということなのです。
シュンニョは語ります。
1987年11月、OSHOは感染性の耳の炎症にかかりました。
ふつうならすぐに治るような軽い炎症だったのに、完治するまで2ヶ月半近くもかかり、その間、やっかいな抗生物質の注射を何度も受けたり、プーナの耳鼻科医による局部手術を受けたりしなければなりませんでした。
OSHOの主治医たちは、このときはじめて、彼は毒を盛られたのではないかと思うようになりました。
OSHOの血液、毛髪、尿、それにレントゲン写真と病歴がロンドンに送られ、病理学者や専門家による検査がされました。
そして、綿密で徹底的な検査のあとに彼らが示した見解は、OSHOがアメリカ政府により身柄を拘束されて以来、わずらっている症状は、彼がタリウムのような重金属の毒を飲まされたと考えないかぎり説明不能だということでした 。
OSHOは私に一度ならず 「アメリカに行ったことで私のワークはだいなしになった」と言いました。彼の言おうとしていることがわからずに、私はこんなふうに答えたものです
「いいえ、そんなことは ありません。
ともかくあなたは世界中で有名になりました。
あなたはあらゆる国の政治家の正体をあばきました。
あなたのサニヤシンたちも成熟し、とても美しく成長しています」
ですが、私はわかっていなかったのです。彼が毒のために死につつあることをわかっていなかったのです。
この最後の3年間をふりかえってみると、初期のプーナでの私たちが集団として達成していたのと同じような高いエネルギーを復活させるために、OSHOがどれほどたくさんの「ワーク」をしなければならなかったのかがわかります。
OSHOは 一日中休んでいるときもありました。昼食をすませてベッドに戻ろうとする彼が「私にはなんの仕事もない」と言ったことがあります。
私は言いました。「なんの仕事もしていない人なのに、あなたはとてもたくさんのことをしています。仕事がないなんて… あなたからの 『働きかけ』を受けていると感じている何千人もの人たちがいます」
「そのとおりだ」と彼は言いました。ウルグアイの講話でOSHOがこう言ったのを聞きました。
何千もの私の弟子たちが、自分でも気づかぬうちに変化するのを私は見た。
彼らは急激に変化したのだが、そうした変化のほとんどは地面の下て起こっていた。彼らのマインドはそうした変化に加わるのさえ許されなかった。
それは、ただハートからハートヘの伝達だった
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)