セックスと死 その5

OSHOはここで、セックス(愛をかわす)を、生物学的な世界から、心の世界、さらにスピリチュアル(魂)の世界へと到達することの可能性について語っています。つまり、生エネルギーという生物学的なエネルギーを、より精神的なエネルギー、スピリチュアルなエネルギーへと高めていく方法について説いています。それらは同じエネルギーなので、抑圧したり、非難したりするのではなく、性エネルギーの性質をよく理解した上で使えば、その同じエネルギーは最高の高みにまで到達することができるのです。

ションニョからの質問に答えて、OSHOは語ります。

(「セックスと死」その5)

これはとりわけ東洋でのことだが、女性はオーガズムのなかで何度も、とても身近に死を感じてきた。死がすぐそばで羽ばたいているのを感じるほどだった。

とりわけ東洋でと私は言った。抑圧的な教義のために人々が精神分裂になる前の古代東洋では、性的衝動が頂点に達するまでは、愛を交わさないものだったからだ。毎日愛を交わさなければならないということはなかった。ふたりとも互いに、これ以上待てないという状態に達するのを待つことになっていた。あたりまえのことだが、そういう人たちのほうがはるかに賢かった。彼らが愛を交わすのは週に一度、あるいは月に一度だったかもしれない。だが、彼らの愛の営みは、日常的な愛がもたらすことのできない、とほうもない体験をもたらした。あなたがたは、それだけ大きな体験が起こるのに必要なだけのエネルギーを蓄えていない。自分に制御できるぎりぎりのところまで昇りつめ、 エネルギーで脈動するほどにならなければならない。そのときはじめて、ふたつのエネルギーの踊りと溶解、出会いがある。その最高のきわみにおいては、 男性もまた、死が自分を取り巻くのを感じるかもしれない。

そのとき死が感じられるのは、それがセックスと同じエネルギーだからだ。だが、性エネルギーが放出されてしまうと、死は感じられなくなる。やっと最近になって医学が認めるようになった事実だが、年をとってもセックスをしている人たちは心臓発作では死なない。

医学者たちはこういう疑間ももつべきだ――そういう人たちは、ほかの病気で死ぬこともないのではないか。そういう人たちは長生きするし、若々しいままでいる。

だがあな たはエネルギーの最低点で愛を交わしているのかもしれない……。実際みんなはそうしている。それでは満足できない。それではよろこべない。それでは満ち足りることはない。それでは絶望するだけだ。愛は頂点において交わされるべきだ。それにはある種の規律が必要だ。人々はセックスを断つために規律を用いてきた。だが、私が教える規律というのは、適切に愛を交わすため、愛がただ生物学的な世界のものにとどまらず、それがあなたの心の世界にまで到達するのを助けるための規律だ。

そしてあなたの愛は、あなたのスピリチュアルな世界にまで到達する可能性をもっている。その最高の高みにおいて、それはあなたのスピリチュアルな世界に到達する。

 

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」

(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)