瞑想ということについて人それぞれのイメージや思い込みがあります。
最近はアメリカでも瞑想は「マインドフルネス」という言葉で社員研修などにも取り入れられ、グーグル、ゴールドマン・サックス、アップルなどの優良企業で実践されたりもしているようです。
それらの瞑想やマインドフルネスという言葉の定義も、その歴史や立場によって、それぞれに異なっていたりします。
Oshoのもとでも古代からのさまざまな瞑想法が紹介され、解説され、実践の機会がありました。
加えてOsho自らが現代人に合った瞑想法を考案して、実践していました。
そのような「瞑想」の共通要素をひとことで表すと「気づき」があること、というふうにもいえそうです。
とはいえ、それは一筋縄にはいきません。
「気づき」というのはとても奥が深いのです。
というのは、瞑想はやるものではなく起こることだ、というふうにOshoが言っているのを聞いたことがあります。
そこに「やるひと」がいる限り、それはまだ瞑想ともいえないので、気づいているつもりでも、たいてい「マインド」が「気づいて」いるだけだったりします。
瞑想とはマインドがない状態、であるので、マインドで気づいている段階では、まだそれは瞑想としての気づきにはなっていないのです。
そのマインドのトリックから抜け出るということは至難の業です。
そういうときには、あまり深刻になるのではなく、ただゲームのように、それを楽しみ「覚えていること」からはじめるのがよさそうです。
Oshoとともにいて味わう瞑想。
そしてまた、さまざまな瞑想のテクニックを実践してみたり、自分自身を知るためのさまざまな西洋のセラピーやワークショップを受けてみたり。
そういう自己を探求することのできるフィールドがプーナでのOshoとともにいるブッダフィールドであり、ミステリースクールでした。
ここでシュンニョが語っている瞑想は日常でも簡単に実践できる瞑想でもあるので、興味のある方は試してみられるといいかと思います。
シュンニョは語ります。
瞑想者は肉体の死ではなくマインドの死を体験し、そしてそのことから生まれ変わる――
Oshoがそのように語るのを聞いたことがあります。
そうして生まれ変わった人のことをサンスクリット語では ドワイジャ (三度生まれた者)と呼びます。
Oshoが話しているあいだ彼のそばで座り、やわらかでリズミカルな彼の声に誘われて瞑想に入りこみ、言葉のはざまの沈黙のなかに落ちてゆき、時間の消滅した世界のなかで中空に漂うこと。
そうしたこととは別に、日常のすべての行為のなかで気づきを保つということがあります。
それはたとえばこのようなことです。
考えごとをせずにただ歩く。
歩くときにはそのことを覚えておこうとします。
自分のなかでおしゃべりせずにただ食べる。
食べるときにはそのことを覚えておことします。
これは楽しいものでした。
まるでゲームのようです。
そしてこの「覚えていること」は、
私の一日のなかにしだいに浸透していきました。
ですが、自分の部屋で静かに座るのというのは、
それともまた違ったことです。
なにもせずに座っていると、
死んだかのように感じられます。
自分の知っているすべてのことがらを手放す感じがするのです。
そして死とは、まさにすべてを手放すことではないでしょうか。
Oshoがつぎのように語るのを聞いたことがあります。
「だからふつう人々は無意識の状態で死ぬ。
死は自然の手による最大の手術だ。
魂は、生涯にわたって同一化していた、
肉体とマインドから切り離されるのだから。
したがって、もっとも楽なのは無意識の状態で死ぬことだ。
人々が前世での死や生を思い出せないのはそのためだ」
静かに座っていて、
私のマインドにまず浮かんでくるのは
「なにかしなさい。
することはこんなにもたくさんあるんだから」
という考えです。
どんなことでも「すること」になります。
日常の動作に気づいていようとすることさえ、一種の「すること」なのです。
そうしているときには少なくとも「見ること」の対象があるのですから。
私が静かに座っていると、私のマインドは恐怖にかられてこんなことを言いだします
「一時間座ったとしてなんになるの。あとからなんの役に立つの。
より繊細になって人生に対処できなくなるだけじゃない」。
「それはたいへんだわ」とも思います。
ですが、私の人生はまったくうまくいっていますし、私は自分というものを楽しんでいるのですから、たとえ今あるものを手放したとしても、それがなんだというのでしょう。
そうです、私はダイアモンドの鉱山の話を、もっともっと大きなことが待っているというOshoの約束を思いだしました。