OSHOの最後の挨拶

 人の人生は死ぬまではわからないものです。

 今日死ぬかもしれないのです。

 地震が起こったり、津波が来たり、事故にあったり、
 その可能性はいつでもあります。

 脳溢血や心筋梗塞はいつ起こるか知れません。
 そのまま死んでしまうか知れないし、半身不随で、
 動くことも自分で食べることもできなくなるかもしれません。

 病気になるかもしれないし、癌になる確率は今や2人にひとりだともいわれています。

 そしてそのような死に直面したときに、
 自分はどのように対応するのか?

 自分が死に直面したこともあるし、
 身の回りでも死にいく人たちの世話をしたこともあるし、
 人が死んでいくのを見てきています。

 Oshoが死に直面していたときに、どのように対応していたのか。

 それを見ることで、Oshoが私たちに何を伝え、
  何を残してくれていたのかを知ることができます。

 もっともOSHOの身近にいたひとりであるマニーシャでさえ、
 その知らせは思いもよらなかったのです。

 でも、OSHOはその日を確実に知りながら、
 その準備をして、最後の挨拶をしていたのです。

 マニーシャは書いています。

 (1990年)1月16日火曜日、OSHOは健康上の理由で、
 いままでのように私たちとともに座ることはで きないが、
 ホールに来て私たちに挨拶し、そのあとすぐに去ることになるとの、
 アムリットの アナウンスがある。

 今晩、OSHOが私たちとともに座るためにブッダホールに入り、
 ホール全体を見渡せる位置に やってきたとたん、
 彼の手は支えを求めて壁に触れる。

 彼がこれほど弱ったのを見たことがなかったので、
 不安と心配で思わず息を飲んだ。

 取り囲むように座る私たち全体に向かって、
 半円を描くようナマステをする彼の姿勢は、優に20分続く。

 ホールを去る足取りが、あまりにもこころもとないので、
 世話係が彼の背後から演壇に入り彼に話しかける。

 おそらく、私たちに向かってナマステの姿勢をとりながら
 後ろに退くのをやめて、私たちに背を向けてその場を去るようにと、
 提言しているのだろう。

 彼はそうしたが、それからすぐ手は再び支えを求めて、
 壁へと伸びる。

 彼の乗った車がホールを回ってゆっくりと動いていく間、
 いつもなら私たちは踊ったり手を叩いたりし続けるのだが、
 今夜私たちは完全に沈黙し、目を閉じたままでいる。

 その沈黙は、 OSHOが私たちとともに座っていたときと比べても、
 私の知るかぎりもっとも深いものとなる。

 いま私は、沈黙こそ私たちが導師と持つことのできる
 唯一の永遠の絆であり、唯一価値のあ る絆卜肉体や
 言葉の世界を超越した交感であることを確信している。

  次の日の晩、OSHOは私たちにナマステだけをするために
 ブッダホールに来ると、すぐに自室へと戻る。

 その翌晩、アムリットは私たちに向かって、
 OSHOは健康状態の悪化のためホールに来れないので、
 代わりに自室にて座ることになるとアナウンスする。

 ダルシャンは、これからこの形で行なわれるだろうとのことだった。

 その晩遅くアムリットに会うと、
 彼はOSHOがこのやり方に決めたことにほっとして、
 嬉しそうだった。

 このままなら、OSHOはエネルギーを貯えられるだろう。
 そして私たちはこれからも、 彼がすぐ近くにいるのを知りながら、
 毎晩ともに瞑想を続けるだろう。

 1月19日、インド人の医師がOSHOを診察するために呼ばれていた。
 たまたまアムリットに出会ったとき、
 彼は何かに気を取られているように見えたが、
 それ以外はいつもの優しい彼だった。

 その日少したってから、彼の部屋に行ってみたが彼はそこに居ず、
 ドアの近くに心臓蘇生装置を装備した手術用手押し車が置かれている。

 私はその時点では、特に心配もしなかった。
 そのあと5時20分に耳にすることになる
 「OSHOが午後5時に肉体を去った」という知らせは、
 思いもよらないものだった。

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