OSHOの弟子になる人たち

OSHOの弟子になる人たちとは、どういう人たちなのだろうか?

OSHOの活動を見ると、4つの時期に分けられる。

OSHOは哲学の大学教授を辞めてインド遊説をしていた時代。

1974年前後にボンベイ(ムンバイ)を拠点として弟子を受け入れはじめ、その後プーナの今の瞑想リゾートを拠点として活動したいわゆるプーナ1(いわゆるオールドプーナ)の時代。

1981年に腰痛の治療のためにアメリカに渡り、オレゴン州にラジニーシプーラムという大きなコミューンを形成し、1985年アメリカを国外退去するまでのいわゆるオレゴンの時代。

その後、ほぼ1年にわたる、いわゆるワールドツアーを経て、1986年、インドのボンベイからプーナに移ったあと、1990年1月19日に肉体を離れるまでの、いわゆるプーナ2の時代に分けられる。

大学教授からインド全国の遊説の時代は、インドのトップの政治家から経営者、芸術家などとの交流もあり、聖者として多大な尊敬を受けていた。

そのまま聖者としてとどまろうと思えば、彼にとっては簡単なことだったろう。

しかし彼は公開討論では、伝統的宗教の指導者に挑戦し、伝統的信仰を覆して大衆の既成観念にショックを与え続けた。

そして、1974年になると、全国に遊説することをやめて、プネに拠点を置き、弟子を取り、弟子に語りかけることを始めた。

それは、一般に語りかけるのではなく、本当に彼の言葉に耳を傾ける用意のある人たちだけにワークをすることに彼のワークをシフトしたのだった。

そして、これまでのようにヒンディー語でインド人だけに語りかけるのではなく、英語での講話も始めるようになり、彼の講話の本も世界各国で出版され、西洋人をはじめ、日本人も含め、世界中からの人々が彼のもとに集まるようになった。

その当時、OSHOのもとに集まった人々は、インドを放浪していたヒッピーのような人々から、真理を求めてインドのグルを訪ね、クリシュナムルティなどのさまざまな聖者を尋ね歩いていた探求者、エサレンなどの世界的に有名なセラピストや人間成長に関わっていたグループリーダーの人たち。
経営者として成功していた人たち、大学教授や医師、弁護士などの人たちも西洋から訪れていた。

そして、そういういわゆる知識階級的な人たちは、最初のころ、アシュラムでの仕事は、ほとんど例外なくコミューンのトイレ掃除にまわされていたというのは有名な話しだった。

「エゴを落とす」「マインドを落とす」ということが、よくOSHOの講話では語られ、まさにその実践の場のひとつがトイレ掃除だったのだろう。

ちょうど私がOSHOを知ったのはオールドプーナの後半の頃から、OSHOが沈黙に入って,アメリカに渡った1980年前後の時期だった。

それまでプーナで毎日講話をしていたOSHOは突然沈黙に入り、そのまま治療のためにアメリカに渡り、1984年までいっさいの講話や公的な活動をやめていたのだが、その間にオレゴンではランチと言われる広大な荒れ地にサニヤシンたちが集い、ラジニーシプーラムという、まさに楽園を作っていた。

そして、OSHOは沈黙のなかにいて、何も活動をすることもなく、ゲストとして滞在していただけだったにも関わらず、なんと99台ものロールスロイスが彼のもとに集まったのだった。
しかも、それらはすべてサニヤシンからの寄付によるものだった。

つまり彼の弟子にはロールスロイスなどをポンと寄付するような人たちも多くいたということになる。

セレブのグルと言われるゆえんでもある。

キリストや仏陀が語るようなスピリチュアルな教えを説く人が、ロールスロイスを99台も集めるなんて、どういうこと???

と、つい思ってしまうのだが、あとでOSHOからの講話を聴いたところによると、それはなんとアメリカをはじめとする西洋文明の物質主義に偏った人たちに向けたOSHO のジョークだったのだった。

実際、アメリカでのメディアのOSHOへの興味は、もっぱらロールスロイス抜きには語れなくなっていたのは、まさにOSHOのもくろみ通りだったと言わなければならないだろう。

OSHOの弟子になるというのは、ある意味並大抵のことではなかった。

あの赤い服やマラ、名前はもちろんのこと、OSHOがまき起こす、ありとあらゆる偏見と試練をくぐり抜けなければならないのだった。

OSHOの弟子になる人たちは、そういう関門を経た人たちなわけなので、変わっているのは当然の帰結だと思われるが、そのマスターのOSHOは、さらにユニークで、変わった人だった。

だって、彼は聖者でいることもできたのに、わざわざ私たちのために受難を引き受けることになったのだから。

だが、それはまさに彼の慈愛ゆえのことだった。

その彼のもとでは、変わっていようと、変であろうと、すべてがそのままに無条件で愛されている。

それが実感できるのがOSHOの弟子であることで得られる、なににも代え難いことのひとつだろう。

そんなOSHOとともにいて、彼の講話を聴くひとときは、まさに至福のひとときだった。

そんなOSHOとともにいるために、嬉々として、すべてをなげうって、インドやアメリカのOSHOとともにいることに捧げていた人たちも多くいた。

私がインドに行っていた当時は、日本円で5万円あれば、1ヶ月間余裕でいい生活ができた。

半年、日本でバイトをして、半年インドで暮すような日本人も多くいた。

OSHOの弟子になる人たちは、そんな彼の愛の虜になった人たちだった。

そして、彼のもとで生まれ変わろうとした人たちだったと言えるだろう。

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。崇拝や賞賛の的になれる。ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。それはエゴを養ってくれる。だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。
いまと違った生き方へと導かなければならない。それは、人のエゴの縄張りを侵すことになる。
幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。

これは反発を招く。人々は敵意を向けてくる。人々は怖がる。
助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。

一面的な働きかけしかしない教師たち。彼らは美しい花ではあるが、あまり役に立たない。

クリシュナムルティは、過去40年あまり、話し続けてきた。人々は彼に耳を傾ける。
多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。

もちろん、もっと知識は増している。議論や理屈がもっと得意になっている。議論の相手としてなら、とてもよろしい。観念の領域での微妙きわまりない 題材を論じるのに慣れている。目覚め、瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについて、こと細かに議論する。とても有能、とても利口になっている。だが、 あいも変わらず凡俗であり、あいもかわらず愚かである。

変わったのはひとつだけ。クリシュナムルティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになった。クリシュナムルティは知識人の玩具になった。彼はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ。それをするのはもちろん危険なこと、火を扱うようなことだが。

ラマナマハラシも、人々にとって、まったく申し分のない人物だった。寺院で静かに坐る聖者。人々はやってきて、花を捧げ、彼を礼拝する。彼はただそれを見守るだけだ。もちろん美しく見事な人物だが、一面的であったことは否めない。人生を変えるほどの衝撃を与えなかった。クリシュナムルティが人々の知性に訴えたのに対し、 彼は人々の感情に訴えた。

ラーマクリシュナも同じだった。多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。だが、それが彼らを変えることはなかった。歓喜の涙は一時的なものだ。家に帰れば、自分がまったく変わっていないことに気づく。

グルジェフはまさにパイオニアだった。グルジエフとともに、人生における精神性の追求の新しい概念が生まれた。彼はそれを「第四の道」(知性/感情/肉体のすべてに働 きかける道)と呼んだ。

私も、この「第四の道」を追求する。

た。 整然とした理論を提供したり、夢を見させてあげたりには興味がなかった。涙や感激や感傷を誘ったりせず、尊敬も求めなかった。彼は人に全面的な変容をもたらそうとした。

人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。それを直さなければならない。

だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。怖がられる。

少数の勇気ある者だけが、グルジェフのような人物に近づいていく。たいへんな勇気が必要だ。だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる」

— OSHO, “The Dhammapada” Vol. 2, #2

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