サニヤスとは その3

そして、サニヤシンということも、ただ何でもない人、無名の人になるまでのゲームにすぎないとOSHOは言う。

「私がサニヤシンでありなさいと言うとき、それが意味するのは『ただ在りなさい』ということだ。

あなたの黄土色のローブ、あなたのマーラ――これらはルールだ。これはゲームだ。私が意味する本当のサニヤスは、これではない。

だが、あなたは余りにもゲームに慣れ親しんでいるから、私があなたをルールのない生に導く前に、移行期としてあなたにはルールが必要になる。

規則やゲームでできているこの世界から、規則やゲームのないあの世界に移行するには、橋を渡らなければならない。

あなたのオレンジ色の服、あなたのマーラは、ただその移行期のためにある。

あなたはルールを直ちに落とすことができない。だから、私はあなたに新しいルール を与える。

だが、十分目覚めていなさい。
あなたのローブがあなたのサニヤスではない、
あなたのマーラがあなたのサニヤスではない、
あなたの新しい名前があなたのサニヤスではないということに。

名前がないとき、あなたが無名になるとき、そこにサニヤスがあるだろう。そうなったら、そこにはルールはない。そのとき、あなたはとても普通で、誰の目にも留らなくなる」

OSHO, A Bird on the Wing, Number 9

しかも、OSHOのいうサニヤスとは、OSHOとも関係がないというのだ。

「このことを覚えておくがいい。サニヤスはこれまである種の師(マスター)と繋がりがあるものであった。

師が伝授する(イニシエーション)ものだった。

サニヤスとは、他の誰かからあなたに与えることのできるものではない。

サニヤスとは自分で取得するものであって、誰かが与えるものではない。

あるいは、こういうほうがいいだろう。存在そのもの以外に、他の誰がサニヤスを与えられるだろう?

もし誰かが私のところに来て、『私にイニシエーションを授けてください』 と言ったら、私は彼に言う。

『どうして私があなたにイニシエーションを授けることができるかね? 私は証人になることしかできない。

イニシエーションは、 あなたが神聖なものから受け取るものであり、イニシエーションは、あなたが存在そのものから受け取るものである。

私はその証人になることぐらいしかできない。証人というのは、私はその現象が起きたときにそこにいたということだ。それ以上のことは何もない。

師に結びついたサニヤスは宗派にならざるを得ない。 師に結びついたサニヤスは決して自由をもたらさないし、束縛だけをもたらすだろう。私は彼らの師になるつもりはなく、ただ、彼らのサニヤスへのイニシエーションの証人になるだけだ。

事実、サニヤスは彼らと存在を繋ぐ直接的な関係であるだろう。
サニヤスへのイニシエーションのための儀式が行われることはない。だから彼がそうしたいときにそれを辞めることは少しも難しくない……。

『私のサニヤシンたち』と私が言ったとき、私は口を滑らせたわけではない。私の口は不思議なことに、めったに滑ることはない。初めてある友人が『あなたのサニヤシンたち』と言ったとき、私はそれを否定しこう言った。

「『私の』と言わないでほしい」だが、私の意図はまた別のところにあった。それは、どうしてひとりのサニヤシンが私のものであり得るのかを問うことにあった。だが、私が再びそれを言ったとき、それは口を滑らせたのではない。

私は『私のサニヤシンたち』と言ったのだ。サニヤシンたちは私のものではあり得ないが、私は確かにサニヤシンに属している」

OSHO, Krishna: The Man and His Philosophy, Number 22

「問題は、私のサニヤシンになることではない。サニヤシンになることだ。私のサニヤシンになるには、確かに、なんらかの誓約(コミットメント)、なんらかの明け渡しが必要だ。

しかし、私はあなたが私に明け渡すことを、あるいは私に誓することを望んでいるわけではない。

私はあなたが自然に明け渡すことを、存在に誓約することを望んでいる。

あなたは私のサニヤシンになる必要はなく、ただサニヤシンになればいい――

そして、それだけが私のサニヤシンになる方法だ」

OSHO, Beyond Psychology, Number 15

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