あなたの唯一のトラブル

私がテイクサニヤスした(OSHOの弟子になった)当時、ある悩みごとで、OSHOのもとでセラピーをリードしているセラピストから個人セッションを受けたときに言われたことがあります。

「あなたは誰か(somebody)になろうとしている」

それがイマイチどういう意味かわからず、じゃぁ、誰かになろうとしなければ悩みは解決するのかと思い質問しました。

「誰かになろうとしないためには、どうすればいいのですか?」

すると言われました。

「あなたは誰でもない人(nobody)になろうとしている」

じゃあ、どうすればいいんだ? 

っていうことになりますが、OSHOがそのことについて話してくれています。

OSHOは語ります。

  私から見たあなたの唯一のトラブルは
  あなたがたが自分自身を受け入れられないことだ

  あなたがたは 自分以外の誰かになりたがる
  それが問題なのだ!

  さもなければ 何一つ足りないものはない
  すべてが目の前で手に入る

私たちは、いつも自分が十分ではないと感じ、良くならなければならない、と教えられて育ってきています。

学校では良い点をとらなければならないし、いい学校に入らなければならないし、いい会社に就職しなければ、いい人生を送れない、といって育てられて、そのための努力をします。

そして常に今の自分のままでは駄目だ、今の自分では不十分だと思い、自分自身を受け入れることができないでいます。

それで、いつも自分以外のものになろうと努力します。

そうすることで、自分がより良くなっていけば、人から認められ、人から愛され、幸せな人生を送ることができると信じて、一生懸命頑張って生きているのです。

もちろん、そのことで自分が向上し、良くなって、幸せな人生を送ることができれば、それはそれで何もいうことはありません。

しかし多くの人が、自分自身を受け入れられず、自分以外の誰かになることにも失敗して、問題を作り出しているのではないでしょうか?

そこで、OSHOは別の視点を語っています。

それは「何かをする」ことではなく「ただ在る」ということです。

この話は、ドゥン・ヌンというスーフィーのマスターが、20年のあいだ何ひとつしないで、完璧なマスターになったという逸話を例にとって話しています。

OSHOは語ります。

  もし 何かする人でないまま
  20年間もただ坐っていたら
  いったい何が起こるだろう?

  水平なるものは消え
  垂直なるものだけが残る
  何かをするのではなく
  ただ在るだけだ

  だが それには忍耐が必要だ
  忍耐できたら メソッドなど何もいらない
  あなたがたがせっかちだから
  私はあなたがたにメソッドを教えなければならない

  もしあなたが急がなかったら
  「私は永遠に待ちます」
  と言うことができたら
  メソッドなどなにひとつ要らない
  ただ坐っているだけでいい

  たとえ何かをしているときにも
  内側であなたは
  「何もしない人」としてとどまる

  もちろんいろいろなことをしなければならない
  風呂にも入らなければならないし
  食事もしなければならない
  寝床を用意したり
  眠ったりしなければならない
  しなければならないことは
  いくつかでてくる

  だが あなたはつねに
  「何もしない人」でありつづける
  それだけで充分だ

  自分自身と静かでいる。。。
  何もせずに
  するとエゴは消えていく

  自分自身を良くしようとすらしないでいる。。。
  と エゴは消えていく
  自分のあるがままを受け容れる
  どんな自分であろうと受け容れることで
  エゴは消える

     「あなたが死ぬまでは」
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もし、私たちが「自分のあるがままを受け入れる」ことができれば、何が起こるでしょうか?

ただ、そこにすでに自分に与えられているものに気づいて、大いなる感謝と喜びが湧き上がるかもしれません。

そうすると、何かをしようとするのではなくても、その大いなる感謝と喜びから、ものごとが自然と起こってくるかもしれません。

あるがままの自分自身から、自然とものごとが起こるとき、それはエゴがするのではなく、ただものごとが起こるに任せるということになっていきます。

スーフィーの瞑想に旋回舞踏(ワーリング)というものがあります。

長いスカートのようなものを履いて、ただ旋回しているところを見たことがある方もおられるかと思います。

ワーリングの瞑想をしているときには、身体は激しく、あるいは優雅に旋回しながらも、中心は静かに静止しているのです。

ちょうど、駒がまわっているときのように、駒は激しくまわり、動いていても、駒の中心は静止しているような感じです。

そのとき、何かをしている人はいず、ただ在ることだけがあります。

水平に動いているものが消え、駒の芯の垂直なるもの、静止した中心だけが感じられます。

何かをしなければ認められず、愛されないと思うのではなく、ただ在ることの中にすべてがすでに在るということに気づくこともできるのです。

そうすれば、自分以外の誰かになろうとしてストレスを抱える必要もなく、今在る命を尊重しあるがままであることをを受け入れることができれば、自殺することもなく、鬱になることもなくなるのではないでしょうか。

どんな自分であろうと、自分のあるがままを受け容れる。

そういう瞑想を、ここでOSHOは教えてくれています。

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