傷つくこと

人生のなかで、傷つくことって、いろいろありますよね。

その傷が大きいものだったら、それはトラウマとなって、その人の人生に影響しますし、インナーチャイルドの傷とかで、子供のころに傷ついたことをいつまでもこだわっていたり、その傷のせいで今の自分があると思っていたりもします。

そんなとき、私はこのOSHOの言葉を思います。

この言葉のなかにOSHOの慈悲を感じます。

これらのOSHOの言葉は、あるスーフィーの物語をベースに語られています。

その文脈がないと、少しわかりづらいかもしれません。

もしその全体のストーリーに興味を持たれた方は、本を読んでくださいね。

OSHOは語ります。

  何回となく 私はあなたを傷つける
  今までにも何回となく
  私はあなたがたを傷つけてきた

  何度も何度も
  あなたがたはショックを受けることだろう
  あなたがたは私のなかに
  友人より敵を見いだすことが何度もあるだろう

  だがそれはそうあってしかるべきことだ
  自然なことだ

  私は 今はあなたがたから何も期待してはいない
  今のあなたがたには不可能なことだ

  しかしあなたがたが翼を広げ
  無限なる大空に向かって飛び立つときには
  あなたがたにも
  私が与えるほかなかった
  それらの傷が理解できる

  それらの傷は私が厳しすぎるからではない
  あなたがたを助ける唯一の方法が
  それだったのだ

  それが理解できてはじめて
  あなたがたは
  感謝の気持ちが持てるだろう

    「あなたが死ぬまでは」
      第4章 自由へと飛び立つ

  http://oejbooks.com/products/dtl_3.html

OSHOという人は人格を持って存在しているマスターではありません。

すでに肉体を持っていない、ということもありますが、最初からそこにはいわゆる人格のようなものはなく、ただ鏡として存在してくれているような人です。

ちょうど神社にお参りするようなもので、そこには鏡がおいてあって、そこには自分の姿が映っているだけです。

神様がいると思ってお参りしているようでも、実はそこには鏡しかなく、その鏡に映った自分に向かってお参りしている。

それと同じで、マスターがいると思っていても、実は、そこには自分の姿が映し出されていて、マスターそのものは、ただ「存在」として、いてくれている。

ですから、OSHOとはいっても、そこには「存在そのもの」があるようなものです。

そのように見ることができれば、この言葉は、実は存在そのものからの言葉であり、マスターというのは、その自分の人生のなかで出会うすべての人々ということにもなります。

親兄弟であったり、友人であったり、教師であったり、日常に出会うすべての人たち。

そのような人たちから傷つけられるようなことがあっても、その人たちがマスターだと思えば、実はそれが「存在」が私に与えてくれた成長の機会であり、気づきの機会でもあったのです。

その傷がマスター(「存在」)からの贈り物だと思うことができれば、すべてが許されるようにも思います。

その傷が傷として残るのは、それをゆるせない気持ちがあるからです。

それは相手のせいだと思うからです。

でも、それは自分の鏡だとしたら?

私たちが成長し、それらの傷を理解できたとき、その過去のさまざまな出来事や傷にも感謝の気持ちを持つことができるときがやってくるのでしょう。

そうしたときに、私たちは自由へと飛び立つことができるのです。

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