信頼とナイーブさの違い

OSHOを理解する上で、OSHOの語る「信頼」というのはとても大切な要素だと感じます。

しかもその信頼は私たちの通常の理解をはるかに超えたものです。

OSHOは信頼することとと信じることとは違うということはよく語っています。

たとえば、人を信じて裏切られた、ということはよくあることですが、信頼というのはその人の質であって、相手がどうふるまうかには依存しないというのです。

相手の人を信じていれば、それが裏切られれば不信感に変わりますが、信頼の人というのは、相手が裏切ったとしてもその信頼が不信感に変わることはないというのです。

このことは頭では理解していたつもりでしたが、このアメリカでのシーラについてさえもOSHOは依然として彼女のことを信頼していたというシュンニョの手記を読んで、OSHOの語る信頼とはこれほどのものなのか、ということを再認識させられました。

これほどのことをしでかしたシーラを信頼するということは私には考えられないことですが、しかしOSHOの信頼という質はシーラには関係なくOSHOそのものの信頼としてそこにあるもののようです。

シーラの表面的な行動ではなく、さらに深いその人の仏性を信頼しているというのですから、OSHOは見ているところが違っているようです。

私たちは表面的なことや外側の評価に右往左往して過ごしていますが、OSHOの人を見る目は、さらに深い本質的なものを見ているようです。

しばしば「私は悟っていない。悟るにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けて、あるときOSHOは、「あなたはすでに悟っている。それがわからないのかね。自分はすでに悟っていると宣言して歩きさい」というようなことを話したときがあります。

OSHOの目から見れば、すべての人はすでにブッダなのでしょう。

シュンニョは次のように書いています。

「彼女(シーラ)が自分で退場するのを、彼は慈悲深く待ちました。彼は依然として彼女の師として彼女を愛し、彼女のなかに隠されたブッダを信頼していました。

OSHOがシーラを信頼していたと私が言うのは、15年ちかくも彼を見てきた私には「彼自身が信頼なのだ」ということがわかるからです。

彼の生きかたはそれ自体が純粋な信頼であり、彼の死にかたは全面的な信頼を教えるものでした。

信頼を身につけた人とうぶ(ナイーブ)でだまされやすい人との違いについてOSHOに質問したことがあります。

OSHOは私の質問に答え、ナイーブだというのは無知であることに等しいが、信頼とは英知ある行為だと言いました。

「どちらもだまされる。どちらも欺かれる。だが、ナイーブな人は、自分はだまされた、欺かれたと思い、やがて人を信頼しなくなる。彼のナイーブさは、遅かれ早かれ不信感に変わる。

信頼の人もまた、だまされ、欺かれる。それでも彼は傷つかない。彼はただ、自分をだました人、欺いた人に、慈愛を感じる。彼の信頼は失われない。

どれだけだまされても、彼の信頼は増しつづける。彼の信頼が人間への不信感に変わることはけっしてない。

はじめのうち、両者は似たものに見える。だが最終的には、ナイーブさという質は不信感に変わるが、信頼という質はさらなる信頼、さらなる慈愛、人間の弱さともろさに対するさらなる理解へと深まりつづける。信頼はきわめて貴重なものだから、そのためにはほかのすべてをなくしてもよいのだ」

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