臨死体験と瞑想体験

  臨死体験というのは、病気や事故などで死の体験をして、その意識を失っている間に、すでに死んだ人に会ったり、光や愛を体験したり、自分の体を離れて横たわっている自分の周りで起こっている状況を少し離れた場所から眺めていたり、過去や未来に行ったという体験をしたりすることです。

 その体験についてはさまざまな研究がなされています。

 立花隆さんが臨死体験をした人たちについてのインタビューをもとに「臨死体験」という本を書かれていまし、NHKでも何度か特集番組が組まれています。

 キュブラーロスの「死ぬ瞬間」やマイケルニュートン「人生は何のためにあるのか
なども臨死体験や死後の生などについて興味深い本です。

 これらの本については、こちらのブログでも紹介しています。

 とりわけアニータ•ムアジャーニの「喜びから生きる」という本は、臨死体験について興味を持たれる方には参考になるでしょう。彼女の臨死状態について医師の詳細な報告があるので、まさに彼女は死んでいたことが立証されています。

 こちらのブログでも簡単に彼女の本の紹介があります。

 また、OSHOも「死について 41の答え」で死の体験について話しています。

 シュンニョはそれらの臨死体験の手記にある内容は、彼女が「瞑想のなかで体験したことのあるものと完全に一致しています」と書いています。

 私も死にかけたことがあるので、これを読んで自分のケースを思い返してみました。

 私の場合、幸い発見が早くて一命をとりとめたのですが、もう少し放置されていれば、そのままあの世に行っていたかと思われます。

 「そのとき臨死体験しましたか?」と友人に聞かれたのですが、残念ながらいろいろ読んだ臨死体験の本のような体験はしませんでした。どうやら呼び戻されたのが少し早すぎたようです。

 もう少し放置されていれば臨死体験もできたのかも、と思うと少し残念な気がします。

 とはいえ、瞑想状態に近い体験はありました。

 私の場合、瞑想中にシュンニョのように光を見たり、失神したりというようなことはありませんが、体がなくなって意識だけの状態になるようなことはよくあります。いつまでもその状態にとどまっていたくて、戻りたくなくなるような至福に近い体験です。

 坐禅では座り方があるのですが、そのとき気づいたのは、あの坐り方というのは慣れるまでは足がしびれたりして大変なのですが、とても合理的にできていて、意識が体から離れても体はそのままの状態に保っていられるのです。「身心脱落 脱落身心」とはよくいったもので、まさにそのような状態になるのです。

 それはともかく、私が死にかけたときには、私を呼ぶ声が遠くに聞こえているのに気がついて、そのときは意識だけがあって体がないことに気づき、その意識が体に戻ってくる感覚があり、意識が体に戻った感覚と同時に大量の吐血をしました。

 ちょうど映画などで、湖で溺れて意識がなくなっている子供を救助して、心臓マッサージや人口呼吸をして、その子供が意識が戻ってきたと同時に咳をして水を吐く、みたいなイメージです。

 そのあとまもなく救急員が担架を持って到着し、体がほとんど動かないままに担架に乗せられ、救急車に運び込まれ、救急車の中で救急員が病院と連絡している状況などを、何のマインド(思考)もなく、なんの感情もなく、ただ明晰な意識とともにそれを観ている状態でした。

 そういうことを思い返すと、死に瀕したときや危機に瀕したときには瞑想状態に近くなるのかもしれません。

 そういう死に瀕したには「いまここ」にいるしかなく、瞑想というのは「いまここ」にいることであることからすれば、ある意味納得できることでもあります。 

 シュンニョは書いています。

 科学雑誌や新聞で、臨死体験者の手記を読んだことがあります。手術中に心臓が止まり死を体験した人や、大きな事故で昏睡状態に陥ったあと、ふたたびよみがえった人の語ったことです。

 そうした手記を読むたびに驚くのですが、そうした臨死体験の内容は、私が瞑想のなかで体験したことのあるものと完全に一致しています。

 昨年『ヘラルド ・トリビューン』紙に、臨死体験の特集記事が載りました。とほうもないショックのために、一時的に肉体を離れたと思われる人たちの体験談が収録されていました。

 彼らはみな、トンネルのかなたに「光」が見えたこと、そしてそのトンネルを抜けると、莫大な愛と至福が感じられたと語っています。

 彼らのなかにはクリスチャンとしての先入観からその「光」をキリストだと思い、病気から回復したあと信仰を深めた人もいました。

 私も瞑想のなかで同じ体験をしたことがありますが、私の場合は「光」が完全に私を呑み込んでしまう前にかならず失神してしまいました。

 これは『The Hidden Sprender』と題されたOSHOの講話録に記録されているのですが、あるサニヤシンが、これと同じ体験についてOSHOに質問したことがあります。

 彼はその体験をこんなふうに描写しました。

 「… … 大きな黒い丸が見えます。この黒い丸の内側に、白い丸があります。この自い丸は環を描きながら、だんだん近づいてきます。でも、黒い九が完全に消える前に私は眼を開けてしまいました

 OSHOはつぎのように答えました。 

 「あなたに起こったことには大きな意味がある。それはめったに起こらない、ユニークなことだ。

 これは東洋が世界にもたらした発見だが、両眼のあいだ、額の奥には、第三の眼がある。だが、それはふだんはまったく休止している。

 人は懸命に働きかけ、すべての性エネルギーを、重力に反して上に向かわせなけばならない。そしてエネルギーが第三の眼に到達したなら、それは開く」

 ふたたび同じことが起こったら、そのときには眼を開けないように努力しなさいと、OSHOは彼に言いました。

 「そして黒い丸が消えようとしているのがわかったなら……。黒い丸はあなたで、自い丸はあなたの意識だ。

 黒い丸はあなたのエゴで、自い丸はあなたの存在(ビーイング)だ。そのときには、存在が広がってゆくのを許し、エゴは消えるにまかせなさい。

 ちょっとした勇気だ。それはあたかも死のようであるかもしれない。これまでずっと自分はその黒い丸だと思ってきたのに、それが消えつつあるのだから。その自い丸が自分なのだとあなたが認めたことはなかった。  

 だから、なじみのないなにか、未知のなにかが自分を乗っ取ろうとしていると思うのだ

 瞑想をつうじて有害なことが起こることはないと、私は理解しています。

瞑想においては見守る者ないしは目撃者の消えることはないからです。

私は瞑想中に失神したくなるときがあるのですが、一度それについてOSHOに質問しました。彼はつぎのように答えました。

失神ないしは気絶が起こりそうになる段階の先まで行く必要がある。恐がることはない。気絶しなさい、失神しなさい、それに圧倒されなさい。

 一瞬すべてが消えるだろう。けれどもほんの一瞬だ。そして突然、日が昇る。夜が明ける

 ちなみに、「誕生と死を回避する」ことについてOSHOが語っている動画もあります。

和尚と過ごしたダイヤモンドの日々

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