OSHOのガイド瞑想

 OSHOは晩年には禅についての講話だけを話していました。

 そしてさらに後半では、OSHO自らが、みんなをその瞑想のなかへとガイドをしていたのです。

 そのOSHOのガイド瞑想でのマニーシャの体験が語られています。

 そしてマニーシャはその自分が体験している瞑想についてOSHOに質問し、OSHOがこれに答えます。

 そこでOSHOは瞑想について、その語りえない真実について語っています。

 マニーシャは書いています。

 「最近OSHOは、私たちに毎晩の講話のあとの瞑想法を紹介した。

 耳をつんざく太鼓の一撃が第一ステージ、ジベリッシユの始まりを告げる。ホールを満たす私たち数千人が、一斉に意味のない言葉をしゃべり、手を動かしたり、あらゆる奇怪な面相を作る……
 
 でたらめ語と体の動きを通じ、あらゆる思考と抑圧された緊張を解放するのだ。

 数分後、OSHOが突然「ストップ」と言うと、二発目の太鼓が鳴り、私たちは完全に静止する。

 その静止の中で、エネルギーは内側で軽々と舞い上がる……高く高く昇ってゆく軽く快い蒸気のような感覚に、言葉にならない歓びで、あたかもはちきれんばかりになる。

 スーフィーの神秘家ルーミーは、数百年前に生きた人だが、ほかの誰の言葉よりいまの私の体験に近いことを表す詩を残している。

このお喋りのあとに佇み

 軽やかになるとき何が起こるか誰が言葉に表せよう?

 たとえペンを何万回もインクに浸したとしても……

三発目の太鼓の音で、座った姿勢の私たちはゆっくりと仰向けに倒れる……布切れでできた 人形のように、お互いの胴体と手足が折り重なったまま横たわる……まるで死体のように。

 そしてOSHOの声が、私たちの存在の中心へと私たちを誘う。

この瞬間が、あたかもあなたの生の最後の瞬間であるかのごとく、全面的な意識と差し迫った切迫さを持って、内側に目を向けさせなさい。

 槍のように、その中心を貫きなさい。

 中心に到達した瞬間、あなたは途方もない沈黙、深遠なる静寂、かつて知ることのなかった歓びを、 見出すだろう。

 花はあなたの上に降り注ぐ。なぜなら、存在が大いに歓喜しているのだから――

人格や定義づけ、努力や欲求不満や心配、そしてこれこそ人生そのものと思い込んでいた想像上の競争から離れ、彼の前にサニヤシンたちの海が横たわる。

 毎晩OSHOの語る即興の詩は、前夜の詩に勝る。

 「この瞬間、ブッダホールは意識の沈黙の湖となった。

 あなたがたは、お互いの中に溶け合っている。あなたがたは大海の一部だ。大海がどこにあるのか、そして大海の意識がどこにあるのか尋ねるのは無用だ。

 いま、ここに在ることは大海であり、大海の意識こそが究極の自由なのだ

 彼の目にはあまりにも明らかな、私たちの内側の潜在的可能性に私たちが気づくように手を貸しつつ、OSHOは隠れている私たちの「内なるブッダ」を優しく誘い出す。

彼(内なるブッダ)は、あなたの生まれ持った本質だ。

 彼は中心に存在できるように、表層にも存在できる。

 あなたの生全体が余すところなく満たされる。

 そんな幸福な日が、ある日きっと訪れる。

 あなたの活動、あなたの動きすべてが、

 本当に優雅に神聖になる日が。

 その日、あなたの沈默は歌となり、

 あなたの不動の中心は踊りとなる

 座っていたときに蓄積されたエネルギーが、横になっている間に頭から出て上昇していき、私は光に満たされ、拡張していく感覚が生まれる……

 そう、私は私自身から離れてしまっている。永遠にここに横たわっていたいほど、満たされている。

 だが太鼓の一撃が瞑想の終わりを告げ、私たちは再び起き上がって座る。

 OSHOは椅子から立ち上がり、私たちが手を叩き、彼のダンスに合わせ体を揺らしだすと、音楽の演奏が始まる。

 毎晩、私は魂を洗濯機にかけられているように感じる。夜ごとに表現できないほど歓びに満ちた飛翔に誘われ、OSHOが私の中に喚起したものを抑えられず、ただただ沈黙の中に茫然と取り残されるか、すすり泣いている。

何年にもわたって、私はうっとりするような魅惑的な体験と、小さな悟りを通じて知るに至った、シンプルで飾らない「あるがままの存在」の間を行ったり来たりしてきた。

 実際、小さな悟りの経験のあと、ずっと以前にそれに似た経験をしていたことに気づいた。それは瞑想中ではなく、男性と愛を交わしていたときだった。

 自分が消えていく感覚を覚えたが、その感じは歓喜ではなく、この同じ「あるがままの存在」だった。

 経験していることが私にとってまったく新しいものであるとき、OSHOへの質問にぴったりと合う言葉を見つけるのはひとつの挑戦だ。

 ルーミーが「言語とは、あなたにぴったりと合う服を置いていない洋服屋のようなものだ」と言ったのがよくわかる。

「おそらく、歓喜が、それを起こす引き金となったのだと思います」と、このことについて書いた。「けれど、起こったこと自体は、歓喜の状態ではありませんでした。それはいかなるものでもなく、ただ在ったのです。瞑想とは、歓喜の前段階なのでしょうか、それとも瞑想は歓喜でさえもない状態、ただの『あるがままの存在』なのでしょうか?」

 OSHOはこう答えてくれた。

 「歓喜や至福は、すべてあなたを瞑想へと誘惑する玩具だ。

 あなたがそれを目にするのは始めだけだ。

 瞑想が深まるにつれ、そこに在るのはただ『あるがままの存在』だ。

 すべては消える。歓喜さえも……

 なぜなら、歓喜はその背後に苦悩の影を引きずっている。

 それが二元性だ。

 『あるがままの存在』だけが二元性でない。

 なぜなら、あるがままの 存在は、ただ存在と同義語であり、

 そこに非存在というものはないからだ

 「真実とは経験ではない……

 真実とは純粋なる覚醒だ。

 ただすべてが存在し、すべてが美しく、すべてが祝福だ。

 だが基となる質は覚醒にある。

 それをあるがままの存在と呼んでもいい……。

 すべての言葉……

 沈黙、平和、法悦、至福……

 どれも何かが足りない

 「あるがままの存在の果汁は、ずっと深遠で、

 人間の使ういかなる言語より、はるかにみずみずしい

和尚との至高の瞬間

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