このOshoの言葉は、探求者にとってのコペルニクス的転回、パラダイムシフトとなる言葉です。
私たちは人生に悩み、
疑問を持って探求の旅に出ます。
それは自分を探す旅だったり、
幸せを求める旅だったりします。
ある人は愛を求め、白馬に乗った王子様を
探す旅だったりするかもしれません。
しかし探求すればするほど、
もとめているものから遠ざかってしまう、
という逆説が発生してしまいます。
なぜなら、探し求めているものは、
すでにあなたの中にあるものだからです。
これに似た話に、メーテルリンクの「青い鳥」
という童話があります。
チルチルとミチルの兄妹が幸せの青い鳥を求めて旅に出るのですが、さまざまな国(場所)を探し求めても、その青い鳥を持ち帰ることができませんでした。
すると、「さあ、起きなさい。今日はクリスマスですよ」というお母さんのよぶ声で目をさますと、二人は自分たちの部屋のベッドの中にいました。
そこで青い鳥を探す旅は終わり、チルチルとミチルは、とうとう青い鳥をつかまえることが出来ませんでした。
ところが、
チルチルとミチルが、ふと鳥カゴを見ると、中に青い羽根が入っていました。
「そうか、ぼくたちの飼っていたハトが、ほんとうの青い鳥だったんだ。しあわせの青い鳥は、ぼくたちの家にいたんだね」というお話です。
つまり、眠って夢の中にいるときにはどうしても得られなかった幸せの青い鳥は、目が覚めたら、すでにそこにあったのだと気づいたということです。
探求していたものは、すでに探求する前から、あなたの中にあったものなのです。
探求の対象を追い求めるよりも
探求している者を探しなさい
探求者を見いだすことによって
突然あなたは存在全体がわが家だと気づく
どこにいてもあなたはわが家にいる
ただ自分自身を発見するだけで
あなたは存在全体がわが家だと気づく
「ゴールド・ナゲッツ」 by Osho
昨夜、変な夢を見ました。
ある見知らぬ国で、お金やカードなどの入った財布やパスポートなどの全財産の入ったカバンをあるレストランに忘れたことに気づいて、その場所に戻ろうとしたら、その場所がわからなくなって、どうしようかと焦りに焦って、手に汗を握ったところで目が覚めました。
目が覚めれば、あれだけ人生の危機ともいうべき不幸の真っ只中にいたのに、全ては夢で、何事もないベッドの上。
悟りを得るって、そんなものかもしれないですね。
私たちは夢の中で苦難や不幸の人生を生きているようなもので、目が覚めれば、それらはただ夢の中の出来事でしかなかったことに気づく。
仏陀をはじめとして、目覚めた人は、同じようなことを語っています。
私たちは無意識の夢の中に生きているようなものだ、と。
目覚めさない、そうすれば求めているものはすでにあなたの中にあることがわかる、と。
私たちは幸せの我が家を求めて人生を生きています。
しかし、どこにいく必要もなかったのです。
どこにいてもあなたはわが家にいる
ただ自分自身を発見するだけで
あなたは存在全体がわが家だと気づく
っていうことなんですね。
ちなみに、「コペルニクス的転回」というのは、カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉です。
これまで,私たちの認識は対象に依拠すると考えられていたのを,カントはこの考え方を逆転させて、対象の認識はわれわれの主観の構成によって初めて可能になるとしました。
この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえて、「コペルニクス的転回」と言ったのです。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)
同じように、探求というと外側に探し求めることのように思われますが、その逆で、自分の内側に発見するものだということです。