「自灯明 法灯明」と「サマサティ(正念)」

仏陀の最後の言葉は

自灯明 法灯明

という言葉でした。

仏陀が入滅する際に、「師が亡くなったら、何に頼ればいいのですか」
という弟子の阿難陀の問いかけに対して仏陀が残した言葉とされています。

仏陀に頼って、仏陀の教えを灯明とするのではなく、自分を灯明とし、
法(ダルマ・真理)を灯明とするように、ということです。

要するに、自分の中に真理があるので、それを見つけなさい、ということです。

そして、現代の仏陀と言われたOSHOの最後の言葉は

サマサティ

という言葉でした。

この言葉を最後に、OSHOが弟子たちの前で講話をすることは
二度とありませんでした。

”Samasati”, remember you are the Buddha

というOSHOの言葉が今も耳に鳴り響いています。

OSHOは次のように語りました。

自分自身をブッダであると思い出すことこそが、
 もっとも貴重なる経験だ。
 なぜなら、それがあなたの永遠性、それがあなた
 の不滅性だからだ。

 それはあなたではなく、あなたの存在そのものだ。
 あなたは星々と、樹々と、大空と、海とひとつだ。
 あなたはもう切り離されてはいない。

 ブッダの最後の言葉はサマサティ(正念)だった。
 自分がブッダであることを覚えておきなさい。
                                         OSHO

真理とは何か、ということを端的に表しています。

<サマサティ(正念)の意味>

サティというのはパーリ語で、特定の物事を心に(常に)
留めておくことを意味し、日本語では念や気づき、
マインドフルネス(mindfulness)などと表現されています。

「正念」というのは、仏陀の八正道の教えの中の7つ目の修道法です。

八正道というのは、正見・正思惟(しょうしゆい)・正語・正業・正命・
正精進・正念・正定(しょうじょう)の八つの修道法です。

生きることは苦であり,その苦の原因は妄執によって起るのだから、
妄執を完全に断ち切れば完全な悟りを得ることができる。

その悟りの状態に到達するために説かれたのが八正道です。

その中でも、正念というのは心に維持する能力のことで、
対象に執着や嫌悪などの価値判断を加えずに、
中立的な立場で注意を払うという仏教の瞑想法の一つです

それは、気づきの瞑想とも言えます。

念を深めると心が固定され、何事にも惑わされない定(じょう)
の状態に至り、三昧の境地に入ります。 この三昧の境地は法悦
感が伴ったりします。

お釈迦さんは出家後に様々な聖人の元で修行しして、この念・定・
三昧を非常に短期間で習得したと言われています。

しかし、この法悦感がどれほど高次であろうとも最終的にはその
法悦感は一時的なものに過ぎないとわかってこれらの聖人達の下
から離れて自ら苦行の道に進みました。

しかし苦行によっても求めるものが得られず、菩提樹の下で瞑想
し、最高位の三昧の境地に入った後、定の状態からその意識を森
羅万象の変化に向けることによって観(かん)を得て、悟りを得
たとされています。

仏教では止観の瞑想法がありますが、仏陀がこの悟りを得た瞑想
法とも言えます。

止観はサンスクリット語で「śamatha-vipaśyanā」と書きますが、
止(サマタ)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住すること
であり、観(ヴィパサナ)とは、不動の心が智慧のはたらきとな
って、事物を真理に即して正しく観察することであると定義されて
います。

簡単に言えば、止は禅定のことで、観は知恵です。
仏教の三学の「戒定慧」のうちの定慧に当たります。

この戒定慧というのは、
戒をまもり生活を正すことによって定を助け
禅定にある心によって智慧を発し
その智慧は真実を正しく観察(かんざつ)することができ、
それによって真理をさとり、仏道が完成される
と仏教では教えています。

ちなみに、三学と八正道の関係は、
正語・正業・正命が「戒」
正精進・正念・正定が「定」
正見・正思惟が「慧」に当たります。

止観の瞑想法については、
天台智顗の「天台小止観」や「摩訶止観」の経典はその
瞑想法のマニュアルで禅宗のテキストにもなっています。

それによると、具体的な方法としては、
止では、まず日常的な心の働きを静め、心を一つの対象
に結びつけることを実践します。

例えば、呼吸瞑想では、呼吸を一つずつ「入る」「出る」
と気づいていく実践をし、心がどこかに飛んでいってしま
った場合には、その事実にいったん気づいてから、またも
との呼吸の「入る」「出る」に戻ります。

それを実践することで、日常的な心の働きが静まってきます。

入息出息に気づいているうちに、気づくという意識そのもの
になり、心(マインド)の働きが止滅する方向に向かいます。

観とは、身体が感じるすべての感覚機能が起きていることを
一つ一つ対象化して気づいている状態です。

最終的に、「縁起の理法(智慧)」を体得するとされています。

仏教では、止(サマタ)の意識の対象は呼吸などの生理現象など
から、仏、法、僧、戒、喜捨、天など40種類以上あります。

例えば、念仏などは仏を心に想起してこれに集中する方法です。

チベット仏教では、この止を先に実践し最高位の状態へと至っ
てから、観の修行に入るようになっています。

このような伝統的なサマタ(止)の場合は対象物が固定されて
いるので「気に留める」あるいは「意識を固定する」という意
味で「念ずる」という言葉がふさわしいと言えます。

これに対して、近年で特に欧米で広く広まったヴィパッサナー
では、この念の対象を伝統的な対象物でなく、最初から念の対
象を常に変化する現象に向けるため、変化に連続的に「気づく」
という意味となります。

ヴィパッサナーではサティとは、「今の瞬間に生じる、あらゆる
事柄に注意を向けて、中立的によく観察し、今・ここに気づいて
いる」ことであるとされています。

サマサティとは、正念の瞑想をすること。

最終的には、自分はブッダであることと(仏性)を思い
出すことになります。

それが仏陀が悟りを得て知ったことでもありました。

自灯明 法灯明 の意味

ところで、ここで、仏陀の最後の言葉、「自灯明 法灯明」と
いう言葉の意味に戻ります。

これは、長部経典16「大般若経」第2章のに書かれています。

この自灯明、法灯明についてはいろいろな解釈がなされている
のですが、その意味は、四念処(四念住)を修しなさい、とい
う意味だという説があります。

その根拠は、「自灯明 法灯明」について、「では、どのよう
に自己を拠り所とするのか」ことについて、仏陀が次のように
話しているところにあります。

「では、アーナンダよ、どのように比丘は自己を島(灯明)と
し、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、
他を依り所とせずに、住むのか。

ここに比丘は、身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知
をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住
みます。

もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそ
なえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みま
す。

心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、
世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、
世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

このように、アーナンダよ、比丘は自己を島(灯明)とし、自
己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島(灯明)とし、
法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのです。

アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島
(灯明)とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を
島(灯明)とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころ
としないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として
最高の境地にいるであろう、

――誰でも学ぼうと望む人々は――。
長部経典16「大般若経」第2章
(片山一良訳、中村元訳)

四念処(四念住)とは、仏教の悟りのための4つの観想法のこと
です。

身念処(身念住) ー 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) ー 一切の受(感覚)は苦(ドゥッカ)である
           と観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) ー 心(チッタ)の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) ー 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を
           観ずる(諸法無我)

このような瞑想の結果、何を知るのでしょう?

仏陀は、何のために、なぜこの瞑想をせよと言ったのでしょうか?

要するに、仏陀がいなくなったとしても、この瞑想をすれば
悟りを得て、自分で真理を得ることができるということなの
でしょう。

仏陀の最後の言葉とOSHOの最後の言葉。

ひとことで言えば、

正しく瞑想して、自分が誰かを知りなさい、

ということになるのではないでしょうか。

それでは今日も、素敵な1日を!