OSHOはインドを出て、ネパールに行くことになりました。ワールドツアーの始まりです。
インドにいるOSHOにまでアメリカ政府は圧力をかけました。
インド政府もその方針に乗っ取り、OSHOの西洋人の弟子たちを国外追放し、外国人のサニヤシンたちがOSHOに会いにインドに来るための観光ヴィザも発行しないということを宣言しました。
OSHOのワークがインドでは続けられないことを見て取ったOSHOは、ネパール行きを決めます。
そしてOSHOは危うくインド政府による裁判のため、拘置所に入れられる寸前のところで難を免れます。
その裁判というのは、インドの税務署の訴えによるもので、OSHOがアメリカ政府に支払った50万ドルの罰金にかかる税金の支払いを求めるものだというのだからあきれます。
インドでのビザを取り消され、先にネパールのポカラに渡ったシュンニョたちは、数週間にわたり、OSHOについての知らせもなく、宙ぶらりんの状態でした。
シュンニョたちは、果たしてOSHOにふたたび会えるかどうかさえも確かではありませんでした。
シュンニョは書いています。
「私は未来がわからない状況を生きていました。
ふたたびOSHOに会えるかどうかもわかりません。
そうした状況に直面して私にわかったのは、私自身が「OSHO」を生きなければならないということでした。
私はOSHOが教えてくれたように生きなければなりません──
トータルにこの瞬間にあるということです。
その自覚から大きな受容と安らぎが起こりました。
もしOSHOがそのまま現れなかったら、私はもしかしたら今日まであの村で静かにひとりで暮らしていたかもしれません。
ある晩、夕食を食べているとクリシュナナンダが部屋に走り込んできて身をおどらせると「OSHOがネパールにやってくる、明日やってくる!」と叫びました。
私たちはすぐさま食事をやめました。すぐに荷物をまとめ、コミューンにいた全員が2台のバンにぎゅうぎゅう詰めになって乗り込み、カトマンドゥに向かいました。
翌朝、ヴィヴェック、ラフィア、デヴァラジのいるソルティ・オベロイ・ホテルに移りました。彼らはこのホテルを拠点にして、OSHOのための住まいか宮殿を探していたのです。
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OSHOが無事にインドに出国してネパールに向かえるよう、ジャイエッシュがいろいろな手配をしていたことを私たちは知りました。
出国の2日前、OSHOはニーラムといっしょに古いアンバサダーに乗ってスパンを離れました。そして空港へ向かい、デリーの定期便に乗ったのです。
その日にフライトがあったこと自体、異例のことでした。そのうえ空席がふたつあったなんてまるで奇跡です。
OSHOが去ってから数時間後、警察がスパンを訪れました。OSHOを取り押さえ、パスポートを没収するのが目的でした。
そのときにもしOSHOが捕まっていたら、降ってわいたような愚かな裁判の決着がつくまでのあいだ、拘置所に入れられていたことでしょう。
その裁判というのはインドの税務署の訴えによるもので、OSHOがアメリカ政府に支払った50万ドルの罰金にかかる税金の支払いを求めるものでした。
その罰金はOSHOの友人が支払ったのですが、税務署はそれを信じようとしません。そしてインド政府もまた、アメリカ政府による略奪に便乗してもうけようと狙ったのです。
「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)