シュンニョの関係性

ここでシュンニョは、自分の関係性についての問題と、Oshoがシュンニョの関係性をどのように助けたのかということについて書いています。

私が聞いた所によると、Oshoは、探究者の道としては、2つの道があると言っています。

瞑想の道愛の道です。

その二つは鳥の両翼の翼のようなものだ、ともOshoが語っているのを聞いたことがあります。

瞑想の道は、例えば禅のように、只管打坐、瞑想一本、ひとりで探求していきます。

愛の道は、13世紀のトルコの神秘家ルーミーのように、愛の旅人として愛を探求していきます。
それは神との愛であったりしますが、愛には相手の人がいることが、ひとりで探求する瞑想の道とは異なっています。

Oshoの特徴は、そのすべてを含んでいることです。

普通は一生をかけて、どれか一本の道を歩いて精神的な探求の道を歩みます。

たとえばキリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教としての、それぞれの道があります。
そのなかでも、いろいろな宗派に分かれた道があります。

そして、探究者は、それぞれの一本の道を歩みます。
メソッドが異なるので、いろんな道を同時に歩むことはできないし、いろいろな道をあちこちつまみ食いする程度では、探求を深めることができません。

しかしOshoは、それらすべてを含んでいるので、それまで一本の道しか知らないと、最初は相当混乱します。

私はもともと禅が好きで、悟りを求めてマスターを求め、Oshoに出会ったので、Oshoの世界に入ってびっくりすることの連続でした。

禅が墨絵の世界だとすれば、Oshoの世界は極彩色の世界です。
何でもありの世界。
「ほんとにいいのかな、これ?」と思ったものです。

それはともかく「愛の道」。

しばらくはシュンニョの愛の道についてのテーマで書いていくことにします。

では、シュンニョの愛はどのような愛だったのでしょうか?

そしてOshoは、どのようにシュンニョを助けたのでしょうか?

シュンニョはOshoに出会い「瞑想の道」を歩んでいましたが、その「道」をはずれ、「関係性」にはまってしまいます。

「関係性」にはまるのは、ある意味、愛の道へと歩むための入り口とも言えます。
なぜなら「関係性」に悩むことから、「愛とは何か」ということを問いはじめるからです。

Oshoによると、関係性というのは、二人の間に愛のなくなっている状態を言うようです。

私たちが愛だと思っている状態は、Oshoに言わせれば、それは単にセックスへの欲望であったり、執着であったりするわけで、嫉妬があれば、それは愛ではないということになります。

「では、本当の愛ってなんなのだろう?」という探求がそこからはじまります。

Oshoのコミューンでは、そういう探求の自由があり、あらゆる試行錯誤が許されている場でもありました。

シュンニョは書いています。

「ボンベイでの最初の2、3週間、私はミラレパと同じ部屋に暮らしました。
それは私が洗濯をする部屋でもありました。

夜になるとOshoは講話をしました。
集まったのは、初めは100人ほどでしたが、西洋からサニヤシンたちが、ぞくぞくと到着するにつれ、その人数は増えていきました。

彼らのほとんどは、アメリカを出てから一度もOshoに会っていませんでした。
ボンベイでの一連の講話には『光明(エンライトンメント)を超えて』というタイトルがついていました。

エンライトンメント(悟り)とは、どんなことなのかさえわかっていない私にとって、それが超えたものを想像することなど、気が遠くなるような話でした!

私はまだ旅のはじまりにいたのです―――
少なくとも、私にはそう感じられませんでした。

そして、そのころの私には、エンライトンメントのことより、ミラレパとの関係のことが頭にありました。

ですから、私はここで「道」からそれて「関係性(リレーションシップ)」と呼ばれる谷間に光を当ててみることにしましょう。

そして男性と女性が互いに夢中になるのはどうしてなのか、という問題を理解するうえで、Oshoが、私をどのように助けてくれたかについてお話しましょう。

Oshoは何百ものダルシャンや講話で、私たちが関係性のなかで直面する問題について語りました。

そうした関係性の問題は、西洋の弟子たちを立ち止まらせてしまう、いちばん大きな障壁のようでした。

この問題をめぐって、私たちはエネルギーを脇にそらしたり、同じ輪のなかを何度も堂々めぐりしたりするのです。

初期のプーナのダルシャンでは、毎晩いくつものカップルがOshoの前に座り、ふたりの抱えている問題について彼に話しました。

Oshoは、とてつもない忍耐を持って、彼らの言うことに耳をかたむけ
「ものごとを深刻に受けとめてはいけない」
「愛と理解を育てなさい」
と、ありとあらゆる方法で私たちに教えようとしました。

彼はときには、カップルが一緒にする瞑想法を教えました。

初期のプーナでの最初の数年間、私は瞑想とのハネムーンを楽しんでいたので、他の人たちがどうして、それほど簡単に横道にそれてしまうのかわかりませんでした。

瞑想に満足し、自分自身に満足していたので「他者」を求める気持ちはなかったのです。

ですが、そこには微妙なバランスがあります。
というのは、Oshoが私たちに望むのは、僧や尼僧のような生き方ではないということも、私はOshoから聞いているからです。

そしてもちろん、生物として異性に引きつけられることはありますし「私は瞑想者なのだから、誰かと一緒にいる必要などないわ」などといくら頭で考えたところで、それに勝てるわけでもありません。

ひとりでいてセックスをしない時期が自然なかたちで訪れたなら、それはそれでよいことです。
自然なかたちで訪れたものは、なんであれ受け容れればよいのです。

私にはひとりでいる時期が1年か2年ほど続きましたが、それは自然なかたちで訪れたものでした。そしてその時期が終わると、まるで振り子が逆に振れるように、私はふたたび男性との関係のなかに入っていきました。

愛の花がしぼんだあとにも2人が一緒にいるとき、私はそれを「関係性」と呼びます。
そういうふたりが一緒にいるのは、甘えと執着と希望によるものです。

希望というのは、いつかまた愛が燃え上がるのを期待しながら、とりあえずのところは互いに戦いあっているということです。
それは力のゲームになり、どちらがどちらを圧倒するかは刻々と変ります。

恋愛が関係になってしまったと気づいたときに相手と友だちとして別れるには、とほうもない覚醒と勇気が必要です。

私にとってもっとも大切なのは、ぞんぶんに生きること、自分の深みを探求すること、自分を創造的に表現することです。

誰かと恋をすることでそれらが容易になるなら、私はその恋に入っていきます。
どのようにしたら、ふたりが一緒にいられるかという問題については、答を見つけようとさえ思いません。

「天国で結ばれ」て「永遠に続く」ような結婚には、なんの価値も認められません。
そんな結婚はありえないと思うからです。
世界には例外的なカップルもいるかも知れませんが、私はお目にかかったことがありません。

  「OSHOとともに過ごしたダイヤモンドの日々」
(本書は絶版になっています。 お問い合わせはinfo@oejbooks.comまで)