誰ひとり孤島ではない
これを生の根本的な真理として
覚えておかなければならない
私がそれを強調するのは
私たちがそれを忘れる傾向にあるからだ
私たちはみなひとつの生命カーー
ひとつの大洋的な存在の一部だ
私たちは基本的に根底の深い
ところでひとつであるから
愛の可能性が生まれる
ひとつでなければ、愛の可能性はない
人は誰しも愛を求めています。
なぜでしょうか?
それは人はみな孤独だからです。
胎児のとき、赤ん坊のときには母親とひとつでした。
母親の愛情がなければ生きていけませんでした。
思春期になり、大人になっても、愛を求めて、恋をし、愛し、ひとつになることの相手を求めます。
あるいは家族がいたり、友人がいたり、愛する人の中で人は支えられ、ひとつであることの安心感を感じます。
しかしもともとが、誰ひとり孤島ではないと、 Oshoは語ります。
それが生の根本的な真理だと。
そのことを覚えておかなければならないと。
それをどうやって覚えているのでしょうか?
記憶するのでしょうか?
それを記憶したら、自分が孤島ではない、という真理がわかるのでしょうか?
例えば、地球の島であれば、海に浮かぶ孤島であっても、海の底では陸地とつながっているので、地球とひとつなんだよというのは、言われてみれば、本当だということがわかります。
でも
私たちはみなひとつの生命カーー
ひとつの大洋的な存在の一部だ
というのは、そのように言われたからといっても、それを確かめることができませんし、頭の知識では理解で来ません。
だって、人それぞれの生命は別々だし、みんな別々の固体として生きています。
それがみなひとつの生命力って、どういうことなんでしょうか?
Oshoのような人がいうことは、多くの次元について語っています。
生命についてもさまざまな次元があり、私たちには気づかない次元について語っているということがよくあります。
ものごとにはいろんな次元があるというのは、それは例えば目の前にある机にも言えます。
机は物体として目に見える次元では、さまざまな形や色やデザインとしてみることが出来ます。
その次元では誰もが目に見ることが出来るので、見ればわかります。
しかし物理学者の目から見れば、その机は原子からできていて、その原子には原子核があり、その原子核のまわりには電子がちょうど太陽のまわりをまわる惑星のようにまわっているんだよ、ということになります。
つまり、私たちの目には物体で固体のように見える机も、実際はすきまだらけの空間でしかないんだよという信じられない世界がそこにあるわけです。
それは今や最先端の物理学では常識になっているので知識としては理解できますが、実は意識の世界はまだ解明されていないので、その証明は難しいわけです。
では、そのOshoが言っていることを確かめる方法がないのか、というとないわけではありません。
それは瞑想のなかで確かめることができます。
Oshoが言っていることがどういうことかを理解するには、ユニティインスティチュートでプラサードたちが教えている「意識の多重構造マップ」を見ると理解がしやすくなります。
私たちが孤島であると感じ、孤独であるのは、この「意識の多重構造マップ」の外側の層にいるときです。
外側の層では、私たちの肉体はそれぞれが別個であり、マインドも感情も別々です。
しかしさらに内側の層である中心では私たちはひとつなのです。
私たちは基本的に根底の深いところでひとつであるからということは外側の層である「マインド」の層では理解できません。
しかし内側の層の中心ではわかる(体験として理解できる)ことなのです。
この「意識の多重構造マップ」では、その中心の層をとりまく「本質」の層に愛があります。
しかし体験としては別に層に分かれているわけではなく、中心でひとつであることと愛の感覚はほぼ同じようなものとして感じられます。
そのことを体験する瞑想が「ハート瞑想」でもあります。
私たちは基本的に根底の深い
と
っっっっっっっxsころでひとつであるから
愛の可能性が生まれる
ひとつでなければ、
可能性はない
逆にいえば、根底の深いところでひとつであることがわかれば、私たちは愛のなかにいることがわかります。
それはすでにあなたは愛のなかにいるということです。
どこにも求める必要もなく、ただあなたが意識の中へと入っていけば、すでに生まれながらにして、愛のなかに生まれていることがわかります。
これを生の根本的な真理として
覚えておかなければならない
私がそれを強調するのは
私たちがそれを忘れる傾向にあるからだ
私たちがそれを忘れる傾向があるのは、私たちが通常は外側のマインドの層にいるからです。
覚えておくために「ハート瞑想」で意識の中心を思い出すことが役に立ちます。