何ごとにも、歴史があります。始まりがあり、終わりがあります。
今ではOshoも肉体を離れ、テイクサニヤスもOsho自らが名前をつけて授与することもなくなり、自分で名前をつけることができますし、自由になっています。
(ちなみに、サニヤスについて知りたい方は以前に書いた記事があります。 https://oejbooks.com/2014/11/18/sannyas-1/)
一般に知られているOshoの活動を分けると5つの時期に分かれるように思われます。
第一の時期はOshoが大学教授だったころの時代で、インド国内を遊説していた時代。
その時期に各地での瞑想キャンプを開催しています。
このジョティの手記が書かれている時期はこの時代にあたります。
マウントアブや今回の記事にあるマナリでの瞑想キャンプは有名です。
第二の時期はOshoが大学教授の職を辞して、インド国内の遊説も止め、1974年プーナに瞑想アシュラムを構え、そこでのみ講話を行い、弟子を取り始めた時代。
その時期にはOshoは自らサニヤスの名前をつけ、対面でのテイクサニヤスの儀式を執り行っていました。
第三の時期は1980年、体調をこわし、講話を一切やめ、沈黙の時期に入ります。
腰痛の治療のためアメリカに渡り、一切の公的な活動を止めています。
その時代にアメリカのオレゴンにコミューンが形成され、Oshoはそこにはゲストとして滞在していました。
1985年にアメリカで講話を再開し、アメリカのメディアのインタビューにも答えたりするようになりますが、同年アメリカを離れ、ワールドツアーが始まります。
ほぼ1年にわたるワールドツアーの間(第4の時期)、チベット、ウルグァイ、ギリシャなどの地を訪れ、滞在地でそこに集まっていた小さなグループに向けて講話を再開します。
そして1987年にプーナのコミューンに戻り、再び講話を再開します。(第5の時期)
しかしそのころには、アメリカで盛られたタリウムの毒と放射能による影響で体が衰弱し、講話に出てこれる回数も減り、1990年1月19日に肉体を去ります。
今回ジョティがOshoからのテイクサニヤスを受けたのは、Oshoが最初にサニヤスを授け始めたころのできごとで、まだプーナに移る前のできごとでした。
それでは「一万人のブッダたちへの百話」、「はじめてのテイクサニヤス」をお楽しみください。
ジョティは語ります。
「 マナリで瞑想キャンプが始まりました。
今日、いつもの服装でOshoに会いにいくと、Oshoに「オレンジ色の服はどこにある? なぜ着ていない?」と聞かれたので「明日になったら着ます」と答えました。
翌朝講話の前に、オレンジ色のルンギとクルタを着て、ボンベイから来た女友だちのヴィーナとOshoの部屋を訪れました。
私もヴィーナも非常にわくわくとしながらリビングで待っていると、2、3分後にOshoがバスルームから出てきました。
Oshoの顔は光のオーラに包まれてまぶしいほどに光り輝いています。
私がOshoの足許に触れるために歩み寄っていくと、Oshoは満面をほころばして挨拶しました。
そして私の頭に手を置いて祝福しました。
私が起き上がろうとしていると、Oshoが
「この服は君にとても似合っている。
さあ、君はサニヤシンだ。
どんなサニヤス・ネームが与えられるべきかな?」
と言って、私の首に大きなビーズが繋がれた、どっしりとしたマラをかけました。
私は一体何事なのか理解できず、ただ驚くばかりでいます。
全てをジョークに取ってただ笑いました。
Oshoがヴィーナに視線を向けました。
ヴィーナの口から「ジョティ」という名前が飛び出しました。
Oshoはこの名前を気に入り
「いい名前だ。だが十分でない。
『ダルマ・ジョティ』が君に合う名前だ」
と言いました。
すべてがリビングで立っている間に起こりました。
これが私がサニヤシンにイニシエートされた瞬間なのです。簡単なことです。
Oshoの方に引き寄せられるのを感じ、Oshoに抱きつきました。
Oshoは私の抱擁を受け取り、私の頭に手を置いて溢れる愛を注ぎ込みました。
私は深い沈黙と喜びのなかで溺れてしまいそうです。」
今日はここまでにします。
えたに