時間はつねに不確実だ
マインドにとっては、それがやっかいの種だ
マインドは確実さを求める
だが、時間はつねに不確実だ
そこで、偶然にでも
少しでも確実な空間を見つけると
マインドは落ち着きを感じる
ある架空の永続性が
マインドの周囲を取り巻く
マインドは存在と生の真の本質を
忘れようとする
マインドはある種の夢の世界に
生きはじめる
そして夢の世界が現実のように見えてくる
それはマインドにとって居心地がいい
マインドはつねに変化を恐れているからだ
その理由は簡単だ
変化が何をもたらすか
良いことか 悪いことか
誰にわかる?
ひとつだけ確かなことがある
変化はあなたの幻想、期待、
夢の世界をくつがえす
マインドはまさに
海岸で砂の城をつくって遊ぶ
子供のようなものだ
ほんのしばらく、
砂の城は完成しているように見える
一一 だが、それは崩れやすい砂で
できている
いつでも、ほんのわずかな微風に
よっても粉々に崩れてしまう
ところが、私たちはこの夢の城に
住みついてしまう
いつまでも自分とともに
残ってくれる何かを見いだした
と感じはじめる
だが、時間は休みなくマインドを
混乱しつづける
それはきびしいようだが
存在がつねにあなたとともに
あるということは
実はきわめて慈悲深いことだ
存在はあなたが見せかけから
現実をつくることを許さない
あなたが仮面を自分の本当の顔
―ー本来の顔として
受け容れる機会を与えない
「ゴールド•ナゲッツ」 by Osho
海水浴のシーズン、海辺を歩いていると、子供たちが海辺に砂で城を作って、海の波に壊されないようにその周りに防波堤を作って遊んでいるのをよく見かけます。
海の近くに住んでいたので、私も引き潮のときに砂の城を作って防波堤を築いたものです。
どんなに防波堤を築いても、時間と供に潮が満ちてくると、砂が浸食され、満ち潮とともにすべてはもとの砂に戻ってしまいます。 マインドで生きる人生とはそんなものだとOshoは語っています。
マインドはその砂上の楼閣が永遠のものだと思って、その自分の城を作ることに夢中になってしまうのです。 やっとできたと思って、ふと気づくと潮が満ちてきていて、その城が海にさらわれてしまうのは時間の問題です。
時間とは変化であり、死です。
死とともに、すべては存在の海のもとへと消え去ってしまうのです。
私たちがそのすべてに気づいていれば、何の問題もないことです。
私たちは海の存在とともにあり、この世に生まれ、子供のように砂と戯れ、砂上の楼閣を築くことを楽しみ、そして潮が満ちてくれば存在に還っていく。
禅に「父母未生以前の本来の面目如何」という公案があります。
夏目漱石も禅の門をたたいたときに、この公案に取り組んだようです。
「父母が生まれる以前にあなたはどこにいたのか?」 本来の面目、自分の本当の顔を知るとは、あなたは海(存在)そのものであり、マインドが考えているような夢の城、この肉体や移ろいゆく現実の中にはない、ということを知ることです。
化城宝処という話が、法華経の『化城喩品(けじょうゆほん)』に出てきます。
宝のある場所(宝処)に向かって遠路を多くの人々が旅していたところ、険しく厳しい道が続いてみんなが疲れてしまいました。その旅人たちの中に一人の導師がいて、方便力をもって幻の城を化現させます。
人々はそこで休息し疲れを癒しました。人々がそこで満足してしまっているのいるのを見て、導師はこれは仮の城であることを教えて、そして再び宝処に向かって出発し、ついに人々を真の宝処に導いた、というお話です。
このたとえは、お釈迦様が一つの仏に至る道『一仏乗』を説かれたときに、これまで説いてきた『声聞、縁覚、菩薩』の三乗は実は真実にいたるための化城(まぼろしの城)のようなものであるということを説いています。
化城というのはまさに私たちの人生そのものです。
その人生の中にある真理を悟ったのが仏陀、お釈迦様です。 その真理を説いてまわるなかで、様々な譬えをもちいたわけですが、その真理を得る方法が瞑想であり、その瞑想方の一つが坐禅です。
その坐禅では、仮面の自分ではなく、本当の自分を見つけなさい、ということを説き、そのためのヒントが「父母未生以前の本来の面目如何」という公案です。
Oshoはここで、私たちに、私たちが化城の世界に住んでいることを気づかせてくれています。
なぜ私たちは化城を永遠のものだと勘違いするのでしょうか?
それは私たちがマインドのなかに生きているからです。
マインドは存在と生の真の本質を
忘れようとする
マインドはある種の夢の世界に
生きはじめる
そのマインドに気づき、マインドから出た世界(リアリティ)に気づく方法が瞑想なのです。
今日はここまでにします。
えたに