なぜ人との間に距離を置く?

No-Thought for the Day より Oshoの言葉

人々はお互いの間に距離を保つ
たとえ友人であっても

恋人との間でさえ
お互いの間に距離をおく

あまりに近づきすぎるのは
危険だからだ

あなたの現実(リアリティ)
がばれてしまう
   Osho

Oshoの言葉は、私たちが普段無意識でしていることに光を投げかけてくれます。

このOshoの言葉も、そんな言葉の一つです。
私たちはお互いの間に距離を置こうとします。 それはなぜでしょう?

それが礼儀だから?
お互いのプライバシーを尊重するため?
自分をよく見せておくため?

Oshoは次のように洞察します。
それは「あなたの現実(リアリティ)がばれてしまう」からだと。

あなたには人にばれたら不都合な現実(リアリティ)ってありますか?
自分の中を見ると、そういう人にばれたら不都合な現実がいっぱいあるのがわかります。

それを人や友人や恋人に知られてしまうと非難されて嫌われてしまうんじゃないかと思えるので、人との間に距離を置いて、それを知られないようにしようとするわけですね。

自分の現実がバレてしまうと、人から非難される危険があるわけです。

では、自分に対してはどうでしょう?
あなたは自分の現実に対してどのように振舞っていますか?
その自分の現実を愛していますか? 
それとも自分の現実に対して非難していますか?

自分の現実を愛する気持ちがあれば、人の中に自分と同じ現実(側面)を見てもそれを愛することができます。
でも、自分の現実に対して非難する気持ちがあれば、その人が持っている現実に対しても非難してしまいます。

例えば自分は怠け者だという現実があったとしましょう。
でも、その怠け者の現実を隠すために、一生懸命努力して、勤勉なふりをしているとしましょう。

そうしたときに、怠け者の人、職場の同僚が怠け者だったりすると、その人に対する非難の気持ちが生じてきます。

そのことを知っているので、自分の現実を非難されたくないがために、人から距離を置いて自分の現実がバレないように隠そうとするわけですね。

さらに、その「自分の現実」に対する非難が強いと、その「自分の現実」は自分の批判の目から逃れようとして、自分の目からは「自分の現実」さえ見えなくなってしまうということが起こります。

誰でも、自分の醜い現実を見たくないし、自分を醜いとは思いたくないですよね。
すると、自分でも、その自分の中の現実が見えなくなってしまうのです。
それは自分の無意識の中に押し込まれてしまいます。

そうするとどうなるかというと、自分の中の現実は見ないで、他人の中に自分が隠している現実を見るようになります。
そして自分の無意識の中に隠されてしまった「自分の現実」と同じ現実を持っている人を非難するようになるのです。

例えば、自分が怠け者だという現実を隠して、怠け者の自分を非難する気持ちがあると、他人の中に怠け者の側面を発見すると、その人が怠け者だと非難する気持ちが生じるのです。

よくあることですが、ある人に対して嫌いだと思ったり、とても非難する点があったりすると、その同じ現実が自分の中にもあったりします。 それは90%以上の確率でそうです。

もし自分の中にある醜い(と思っている)現実を非難するることがなければ、他人が同じ側面(現実)を追っていたとしてもそれに対して非難する気持ちはなくなります。

そういう意味では、自分がどういう現実を無意識の中に隠しているのかということを見たければ、他人のどういう現実(側面)を非難しているかを見ればそれがわかります。

なぜなら、もしその自分の中の現実を愛していれば、その同じ現実を持っている人にも慈愛の気持ちを感じるでしょうから。

私たちはマインドの世界に生きています。 そして私たちにはマインドがあります。

マインドの機能は分析し、評価し、判断することです。 良い悪い、汚い綺麗、醜い美しいを評価し、それに従って非難したり褒めたりします。

そしてより良く、より綺麗に、より美しくなろうと努力します。
それ自体は悪いことではなく、むしろ良いことなのでしょう。

しかしマインドの世界は二元性の世界でもあるので、良い面があれば悪い面があり、美しい面があれば醜い面もあります。それはコインの裏表です。それを避けることはできません。

そうすると、そのマインドの世界の中にのみ生きている限り、安全な道は人と距離を置くことです。

しかし友人や恋人との間でも距離を置いていなければならないとすれば、そこには問題があります。

もし恋人ないし結婚した相手との距離も置いたままであるとすれば、そこにはマインドだけがあって、愛がない可能性があります。

もしそこに愛があれば、お互いの現実をバラしたとしても、そこには愛があります。
その人のあるがままを認め、そのあるがままを無条件に許し、受容します。
愛は非難することはありませんし、ジャッジすることもありません。
あるがままにものごとを見て、あるがままを受け入れ、愛することができます。

そこに愛があれば、お互いの間に距離を置く必要はなくなります。
もしそこに距離がある場合はもう一つの問題もあります。

それは友人や恋人との間だけではなく、自分自身との間にも距離を置いている可能性があります。

そして「自分の現実」を愛することができないと、他人の現実を愛することも難しくなってしまいます。
そこで必要になってくるのは無条件の愛です。 その無条件の愛はマインドには不可能なことです。

マインドの愛は条件付きにならざるを得ません。
無条件の愛はハートを知ることによって可能になってきます。

無条件の愛はハートの機能だからです。
ハートの道が必要なのはそのためです。

No thought for today.

Have a nice day! 

えたに