Oshoメディアを語る

「現代の神秘家とメディア」

A Contemporary Mystic and the Media

現代の神秘家とはOshoのことですが、仏陀の時代にはメディアはなく、一生かけてインド国内を歩き回って説法をして回りました。当時60あった州のうち、仏陀がまわることができたのは彼が住んでいたビハール州だけでした。

仏陀の時代にはインドの各州は王国となっていたので、その国境を超えて説法することもできなかったという事情もあったのでしょう。

そもそも仏陀はクシャトリアの階級出身なので、仏陀のように宗教上の教えを説くことは身分上も許されないことであったはずですが、王族の生まれだったので大目に見られたのでしょう。

しかし仏陀の教えは当時のバラモン教の教えに反する教えもあったので問題があったはずですが、それさえも仏陀が王族の出身であるということで見逃されていた可能性があります。

しかし、最後は比丘、つまり女性の出家を認めたことで毒殺されたという説もあるぐらいです。

仏陀は弟子の饗した毒キノコに当たって食中毒で亡くなったというのが通説ですが、当時の仏陀の説法がバラモン教の伝統に反し看過することができない状況にあったことから見ると、毒殺説の方が説得力があります。

それはともかく、今回のOshoの講話では、これだけメディアが発達した現代においては、そのメディアを活用すべきだという考えが語られています。

Oshoは歩き回ることさえせずに、椅子に座って語ることだけで世界中の人々にそのメッセージが伝わるわけですが、そういうメディアを使わない手はない、というのです。

私はな何であれ、徹底的にやる
私はすべてについて 
最後の一滴まで搾り取る

というのは、まさにOshoのやり方で、印象的な言葉です。

「本だと、まずそれを購入して、それを読まなければならず、書籍は時代遅れになっている」 というOshoの言葉は出版社にとっては耳の痛い言葉ですが、ある意味、現代の本離れの状況を見ると、1985年の30年前にOshoは現代の状況を見抜いています。  

そして本を買ったり読んだりしなくてもテレビで見れるなら、そのほうが多くの人が手に入れることができる、とも語っています。

今このようにYouTubeでOshoの動画が見れるのは、まさにその状況になっています。  

しかも「見る」ということは「読む」ことよりも多くの情報を伝えることができます。  

「読む」ことは言葉だけで伝えなければなりませんが、「見る」ことであれば、ライブ同然に、今も直接、Oshoのしぐさ、言葉のギャップや強調などの語り口、声そのものの響きや沈黙、彼の顔やその表情やまなざしを見ることができます。  

それよりもOshoその人から発せられる雰囲気は、言葉だけでは伝えるのは至難の技です。 それらは本によっては伝えられないことです。  

Oshoによれば、本は、それらの見ることによって伝えられる本来の意味の80%を失っているということなのです。  

Oshoはテレビの時代と言っていますが、それは映像の時代ということでこのYouTubeなども含んでいます。  

というわけで、このブログでも映像があるものについては、Osho の映像から受け取ってもらうのが最も正確にOshoのメッセージを伝えることができます。  それでは「現代の神秘家とメディア」をお楽しみください。

ちなみに、これは日本語の字幕が入っているビデオです。 日本語の字幕が表示されないときは、画面の下の歯車のマーク「設定」をクリックして「字幕」の言語を「日本語」に選択してください。 

今日はここまでにします。

えたに