ディヤン・スートラ

しばらく、このOSHOブログをお休みしていました。

何かが私の中でストップして、書こうという気にならなかったからです。

このブログでOshoのユーチューブビデオを100本紹介しようという目的を持っていて、そのためにビデオの字幕を入れることに協力したりもしていたのですが、気がついたら100本以上を紹介していました。

すでにOshoの言葉だけを紹介するだけなら、Oshoの本はいっぱい出版されているし、他のブログやフェイスブックでも色々紹介されているので、わざわざ私がここで紹介することもないし。

そこで、私にできることはなんだろう?

という疑問が湧き上がったことも、筆が止まってしまった一因かもしれません。

そうこうしているうちに、もし私がOshoについて書く意味があるとすれば、私の目から見たOshoを等身大で書くことぐらいかなと思うようになりました。

それはOshoを解説するのではなく、私の経験しているOshoを書くことになります。

そもそもOshoを客観的に解説することはできないので、Oshoを語ることは結局は自分自身を語ることでしかないのですが、そのことにもっと正直になって書いていこう、というふうに思うようになりました。

そういうわけで、このブログのタイトルも変更しました。

「OSHOブログ」というタイトルから「Oshoの瞑想・研究実践会」というタイトルに変更しました。

私がOshoに惹かれたのは、禅を通して瞑想に惹かれていたからで、悟りを得るにはどうすればいいんだろう、みたいなところから悟りを得たOshoに惹かれたのでした。

なので、そこが私のOshoとの出会いの接点で、Oshoも瞑想こそすべて、というようなことを語っているので、このブログではOshoの語る瞑想についてを中心に書いていこうと思っています。

今日は冬至。

冬至は陰が極まってように転じる日で、一陽来復と言って運気が上昇に転じる日でもあるようです。

というわけで、前置きが長くなりましたが、心機一転、今日からOshoの瞑想ブログを再開します。

そこで最初に紹介したいのが、「ディヤン・スートラ」。

「ディヤン」(Dhyan)というのはサンスクリット語でディヤーナからきていて、ディアーナ、中国語で「禅那」と漢字表記され、その後「禅」となって日本に伝えられた経緯があります。

そういう意味で「ディヤン」とは「瞑想」という意味になります。

スートラ」(Sutra)というのは 経典のことを言います。

経典には、仏の教説を書きとどめた書物、聖人・賢人が著述した書物という意味があるので、「ディヤンスートラ」とはOshoが瞑想について語った書、という意味になります。

このOshoの語りは、マハバレシュワールでのささやかな集いでなされた九つの談話で、「座談」とでも言えるような、マスターと弟子の間で話されたものです。

これはまだOshoがプーナでコミューンを解説前の話です。

「ディヤンスートラ」は次のようなOshoの言葉から始まります。

親愛なる人たちへ

初めにあなた方を歓迎したい。
それはあなた方が神性への渇望を抱き、
ありきたりの生から
探求者の生への向上を望み、
世俗的な欲望に屈せず、
真理への渇望を抱いているからだ。

真理への渇きを
感じたことのある人は幸運だ。
無数の人が生まれる中で、
真理への渇望を覚える人は
ほんのわずかしかいない。

真理を知ることは、大いなる祝福だ
――だが、それに対する渇望を
抱くことも、同じくらい
大いなる祝福なのだ。

たとえ、それを
成就しなくとも構わない。
だが、この渇きを経験したことが
まったくないとしたら、
実に不幸なことだ。

わたしは、真理を知ることが
重要なのではないと言いたい。
重要なのは、あなたがそれを
渇望していること、
その体験に向けて全力を
尽くしていること、
そのために懸命に努力し
もとめていること、
この目的のために、できることは
なんでもしようと決意していることだ。

にもかかわらず、それを成就しない
としても問題はない。

しかし、この渇きをまったく
体験したことがないなら
――それは最大の悲劇だ。」

Oshoの書は書かれたものは一冊もなく、全てが語られたものです。

仏陀の言葉も全てが対機説法ですが、Oshoの言葉も全てが対機説法です。

Oshoの書を読むということは、まさにそのOshoの語りを聞くことになります。

Oshoを前にしてその語りを聴く(読む)ということは、Oshoの瞑想の波動を身に受けることになります。

そしてそのOshoの語りを聴くとき、それは直接ハートに響いてくるものがあります。

内なる渇望が呼び起こされます。

このOshoの講話を聴いたとき、まさに真理への渇望が呼び起こされるのです。

Oshoは「真理」そのものであり、私がOshoに呼び寄せられたもの、それは真理への渇望だった、ということがわかるのです。

今日はここまでにします。

えたに