危険に直面して生きる

このOshoの言葉は、私にとっては、日々の瞑想のための言葉でもあります。

危険は、真実の人であるための
ひとつの根本的な基盤であるべきだ

ものごとが安定してしまったと気づいたら
すぐに、それをひっくり返しなさい

ゴールド・ナゲッツ」より  by Osho

マインドは安定を求めます。

楽をして、平穏無事でありたいと願うのです。

でも、安定した時に何が起こるか?

何も考えなくなり、進歩がなくなります。

危険に直面した時、ひとは注意深くなります。

命の危険に直面した時、全神経が研ぎ澄まされます。

危険に直面した時、ひとはクリエイティブになり、全身全霊で、なんとかしてその危機を脱しようと試みます。

危険に直面した時、ひとは瞑想的にならざるをえなくなります。

なぜなら、瞑想とは「気づき」だから。

Oshoのコミューンを訪れると、いつもそこはカオスでした。

いつもどこかしら工事をしているのです。

「確か、ここって前に工事していたところじゃないの?」と思うぐらい、せっかく新しくしたはずなのに、次の年には壊されて、新しくやり直していたりするのです。

最初は、「なんて無駄なことをしているんだろう?」と疑問だったのですが、それはある意味、そこにいる人たちを安住させないための、Oshoの方便だったのかもしれません。

せっかく安定したのに、それをひっくり返すって、とても勇気のいることです。

危機が訪れた時、このOshoの言葉を思い出すと、勇気が出てきます。

真実の人であるためのチャンスだと思えるからです。

自分がそれをひっくりかえさなくても、存在がちゃんと用意してくれているのです。

「真実の人でありなさい」という、存在からのメッセージだと受け止めることができるからです。

ちなみに、「真実の人」ってなんでしょう?

「真実の人」で思い出すのは、臨済宗の「臨済録」にある「一無位の真人」という説法です。

「上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有て、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。

時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。

師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。その僧擬議す。

師托開して、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎ケツ(かんしけつ)ぞ、と云って便ち方丈に帰る。」

というお話です。

赤肉団(しゃくにくだん)というのは、「肉体」という説が一般的ですが、中国では「心臓」を意味しているという説もあります。

そして「真人」というのは、一般的には「仏性」「霊性」「主人公」「正法眼蔵」「無修無証、修行することも、悟りを開くこともいらない、生まれたままの自己」というふうに解釈されていたりします。

この臨済の説法を聞いた弟子が、「無位の真人ってなんですか?」って質問したんですね。

そしたら臨済突然その僧の胸倉を捕まえて『さあ言え!言え!』と迫ったんです。

その僧は面食らってすぐに答えることができなかったので、臨済は僧を突き放して「おまえの無位の真人はクソだ」って言ったっていうお話です。

これは禅の考案でもあるんです。

「一無位の真人」っていうことで、臨済は何を言いたかったんだろうっていうことです。

そこがOshoのいう「真実の人」ということにもなります。

臨済に質問したら、胸倉を掴まれて「喝」を食らうところですよね。

私の解釈によると、「ハートの中に真実の人はいる。それはいつもそこにあるから、まだ気づいていない人は、それを看よ」ってことになります。

事実の人というのは、いつもハートの中心にあってそこに在るものです。

ところが、外側の層であるマインドや頭の思考にいるときには、そのことがわかりません。

そこで、その弟子は、マインドから質問したのです。

「真実の人って何ですか?」と。

すると臨済は、急にその弟子の胸ぐらを掴んで言ったのです。

臨済は厳しく、非常に恐いマスターとして有名でした。

そんな人にいきなり胸ぐらをつかまれるというのは、その弟子にとっては緊急事態です。

そんなとき、マインドは吹っ飛んで、真人が現れるもんなんですが、その弟子はまだマインドの中にいて、躊躇して答えられなかったんですね。

そこで臨済に言われちゃうんですね。

「お前の真人ってそんなもんか。クソだな!」と。

「真人というのは考えたってわからんぞ」ってことだと言いたかったんだと思うんですね。

まぁ、これは私の勝手な公案の解釈ですけど。

このOshoの言葉も禅公案のようなものなので、日々の生活の中で取り組んでみてください。

そうすると、この一言が瞑想にもなるでしょう。