寂しさへの瞑想シリーズ その13
Oshoの言葉
たとえ全世界が消えてしまっても、
この禅師は何も寂しく思うことは
ないだろう。
たとえ突然、何かの魔法で
全世界が消えて、
この禅師がひとり
取り残されたとしても、
彼はこれまでと同じように幸せで、
何も恋しく思うことはないだろう。
彼はそのとてつもない空虚さ、
この純粋な無限性を
愛することだろう。
何も見逃すことはない。
なぜなら彼は、
家に帰り着いたのだから。
彼は自分自身が自分自身で
十分であることを知っている。
これは、悟りを開いて、
家に帰り着いた人が、
他の人と一緒に暮らさない
という意味ではない。
実際は、彼だけが他の人と
一緒にいることができる。
自分自身と一緒にいることが
できるから、
他の人と一緒にいることが
できるようになるのだ。
もしあなたが自分自身と
一緒にいることができないなら、
どうして他の人と一緒に
いることができる?
あなたは
最も近い場所にいるのだ。
自分自身とさえ、深い愛や喜びの中に
いることができないのに、
どうして他の人と一緒にいることが
できるというのか?
他人は遥かに遠い存在だ。
Osho
ここで語られていることは、すべてOshoの経験であるということは、前回お話ししましたが、
ここで「家に帰り着いたのだから」という言葉があります。
なぜなら彼は、
家に帰り着いたのだから。
彼は自分自身が自分自身で
十分であることを知っている。
私がテイクサニヤスした(Oshoの弟子になった)ときにみんなに言われた言葉があります。
welcome back
「おかえりなさい」
っていう言葉なんです。
みんなとてもフレンドリーで、本当に嬉しそうに笑顔でお祝いしてくれていたので、
まぁ、こういう大きな家庭(コミューン)にいることを
そういうふうに言っているんだろう、ぐらいな気持ちで
そのときは、あまり気に留めていなかったのですが、
本来の意味は、ここでOshoが語っている意味だった、
ということに気づいたのは、しばらくしてからでした。
これは、悟りを開いて、
家に帰り着いた人が、
悟りを開くということは、そのことを探求し、
何か大変な修行してやっと達成することができるもんだ、
という観念があったのですが、
いやそうではないんだ。
それはただ、本来の自分に戻ることなんだ。
それはどこか遠くに行くことではないんだ。自分以外のものになることではないんだ。
瞑想ということはそういうことなのだ。
本来の自分自身に戻るというたったそれだけの、自然なことなのだ、
ということに気づかされました。
それは、今まで考えていたこととは真逆のことでした。
Oshoが、探求すればするほど、
あなたは自分から遠ざかっていまう、
と言っていることことの意味は
ここにあります。
外側を探求するのではなく、
内側に入りなさい、
ということを何度も何度も繰り返して言ってくれているのですが、
目が外側を向いている限りは、その言葉は耳に入らないのです。
私たちは、何かスピリチュアルなことを探求して、
どこか、自分以外の遠くに向かって、
インドを旅したり、ヒマラヤに行ったりしますが、
どうやら、そういうことではないらしい、
ということが、ここでOshoが語っていることでもあります。
別に、どこかに行く必要はなく、
ただ、ひとり、自分自身でいることができれば、それがすべてなのです。
何か、自分以外のどこかを探し求めて、家を出てしまうから、
本来の自分自身に戻るだけのことなのに、
「おかえりなさい」なんて言われてしまうわけなのですね。
要するに、どうやら、私たちは、どこかに家出してしまっている状態のようです。
だから、寂しく思ってしまうわけなんですね。
今日はここまでにします。
えたに