寂しさへの瞑想シリーズ その24

寂しさへの瞑想シリーズ その24

Oshoの言葉

死は、
あなたと他人を切り離すだけで、

決してあなたを自分自身から
切り離すものではない

ということをことを覚えていなさい。

死はとても
恐ろしいもののように思える、

なぜなら死はあなたを
他人から引き離すからだ。

死は単にあなたを
他者から引き離すだけだ。

死はあなたを自分自身から
引き離すことはできない。

あなたを自分自身から
引き離す方法はない。

あなたが自分自身と
一緒にいる方法を学べば、

死は無意味になり、
死は存在しない。

あなたは不死になる。

そうなれば、死はあなたから
何も奪うことはできない。

死があなたから
奪うことができるものを、

あなたは自分の意志で手放したのだ。 

それが瞑想というものだーー
本質的でないものを手放すこと。

死があなたから
奪うことのできるものを手放すこと

死がやろうとしていることを、
瞑想者は自ら進んで、自発的に行う。

これが奪われることをよく知っていて、
それを手放すのだ。 
     Osho

死は、
あなたと他人を切り離すだけで、

決してあなたを自分自身から
切り離すものではない

ということをことを覚えていなさい。

これは、目から鱗というか、
ちょっとした驚きの言葉でした。

なぜなら、死によって、今まで自分だと思っていたものが全部なくなってしまうからです。

肉体、マインド、これまで自分だと思っていたものが全部なくなってしまうのですから。

自分が無になってしまうようなものですから。

だから死は恐ろしいものだと思われているのだと思っていました。

死はとても
恐ろしいもののように思える、

なぜなら死はあなたを
他人から引き離すからだ。

死は単にあなたを他者から
引き離すだけだ。

確かに、死んだ人のことを思うと、その人とは、切り離されてしまいます。

しかし、肉体以外でのつながりを感じることができれば、例えば、ハートでのつながりを感じられるなら、肉体の喪失のダメージはやわらぎます。

死ぬ時に、他者から切り離されることが恐ろしいとは、あまり考えたことがなかった気がします。

自分のすべてがなくなってしまうことが恐ろしいのだと思っていました。

死はあなたを自分自身から
引き離すことはできない。

あなたを自分自身から
引き離す方法はない。

自分自身から切り離す方法はない、
ってどういう意味なんでしょう?

これも、あまり耳にしないことです。

あなたが自分自身と
一緒にいる方法を学べば、

死は無意味になり、死は存在しない。
あなたは不死になる。
そうなれば、死はあなたから
何も奪うことはできない。

う〜ん。こういう不死の方法があるんですね。

というか、すでに、

あなたを自分自身から引き離す方法はない

というのであれば、すでに自分は不死である、ということになりますね?

自分自身と一緒にいる方法を学ばなくても。

でも、それを学べば、自分が死ぬ前にそのことがわかる、という意味なのでしょう。

だから、死ぬことを恐れることもなくなる、と。

死があなたから
奪うことができるものを、

あなたは自分の意志で手放したのだ。 
それが瞑想というものだーー

瞑想について、深いレベルでのことが語られています。

私が好きな至道無難禅師の言葉に

生きながら、死人となりてなり果てて、思いのままにするわざぞよき

という言葉がありますが、

このOshoの言葉は、まさにこの至道無難の言葉を表しているように思えます。

本質的でないものを手放すこと。
死があなたから
奪うことのできるものを手放すこと

死がやろうとしていることを、
瞑想者は自ら進んで、自発的に行う。
これが奪われることを
よく知っていて、
それを手放すのだ。

瞑想の中では、本質的でないものをすべて手放し、

これまでの本質的ではない自分は死んでしまった。

そうしたときには、本当の自由を得ることができる。

その自由の中で思いのままにふるまうことができるのはなんてよい気分なことか

「死ぬ前に死ね」

あるいは、瞑想とは死ぬ前に死ぬことだ、

というふうによく言われます。

そのことの意味を詳しく語ってくれているようです。

最近、養老孟司さんの「死の壁」という本が出ましたが、

そこには、死んだ後のことは本人はわからないのだから、私は本人にとって存在しない、

というようなことが書いてあるそうですが、

そういう考え方もあるのか?

と思いますが、あなたはどう思いますか?

今日はここまでにします。

えたに