「家族に対する責任」シリーズ(10)

今回ここで、「家族に対する責任」

というテーマでお届けしている一連のOshoの講話は

「愛の責任とはなんでしょうか?」

という質問に対してOshoが回答した言葉について掲載しています。

「家族に対する責任」シリーズ(10)

Oshoの言葉

しかしその支配は
あまりにも長かったので、

それが存在に対して
間違いを犯し続けていることは

簡単にはわからない

私は、この質問をできるだけ
細かく解剖したい

ただこの質問を詳細に
分析することによってのみ、

この質問には答えが必要ではないことに
気づかせることができるだろう

あらゆる道徳律によると、
責任とは一種の義務であり、
義務は重荷になる

あなたはそれをしなければならない
なぜなら自分の意思に反しても
それをするようにと

言われてきたからだ

そしてもしあなたが
それをしなければ、

あなたは罪悪感を感じる
自分の責任から
逃れているように感じる

もしそれをすれば、あなたは奴隷にされ、
個人として破壊され、
自由を奪われたと感じる

どちらにしても、苦境に立たされる

道徳は、人間を心理的に病ませる
何をするにしても
不安にさせるような考えを与える

あなたがそれに従おうが従わまいが、
なんの違いもない

あなたは
「これは国に対するあなたの責任です」
と言われる

自然に関する限り、
存在に関する限り、
どこにも国は存在しない

あなたが手にしている
地図は無意味であり、

より良い人類は
それらをすべて燃やすだろう

なぜなら人類の
どんな部分を差別する境界線も、

醜く、狂気の沙汰だからだ。
                   Osho

ここで、

しかしその支配は
あまりにも長かったので、

それが存在に対して
間違いを犯し続けていることは

簡単にはわからない

というのは、私たちはこの現代社会の中で、
すべてのことをマインドで、

責任と義務という観点から、
ものごとを考えるように教育され
条件づけられてきていることを言っています。

私は、この質問を
できるだけ細かく解剖したい

ただこの質問を詳細に
分析することによってのみ、

この質問には答えが必要ではないことに
気づかせることができるだろう

 

ここでOshoが言っている、

「この質問」というのは、

「愛の責任とはなんでしょうか?」

という質問です。

この質問を詳細に分析すれば、

本当の「愛」を知っていれば、
そもそも「愛の責任」という言葉
そのものがナンセンスだ、

ということになります。

なぜなら、愛そのものが責任なので、
それを分離して考えることそのものが
間違っていることになるからです。

それを分離してしまったのは、
世の中の道徳体系

つまり、マインドの論理がそれを分断してしまったからです。

そのマインドの論理とはどういうものなのか、

ということをOshoはこの講話の中で解剖して語ってくれています。

そのことがわかれば、
本当の愛を知ることだけで十分だ、

ということになります。

だから、

本当の愛を知るようにしなさい、

ということで、その本当の愛を知る方法をOshoは語ってくれてます。

その愛を知る方法については、数回前のOshoの言葉ですでに紹介した通りです。

その箇所を読みたい方は、こちらをご参照ください。

今日はここまでとします。

えたに