コンパッション 科学的=再現性

昨日配信のメルマガ(ブログ)に返信がありました。

その返信と、それについてのコメント、前回のブログの補足になると思うので、こちらでもご紹介します。

「夏の間は全然追いつけなかったクラブの配信も、
ようやく落ち着いて読めるようになってきました。
(その間に配信方法とか変更されたのですよね、
そこには追いつけてなくて、
ひとまず感想を送らせてもらいました。)

科学的にコンパッションを伝えることで今の多くの人に伝わるという今朝のお話し、とても納得です。

しばらく前の配信で紹介されていた
ジョー・ディスペンザ博士の
オンラインコースに参加してみたんですが、
かなり変わったことを実感しました。
私の体験では、特に身体の感覚に
効果的だなと感じました。
科学的=再現性がある、
ということも実感しました。

身体の、脳の仕組みとか
自律神経の話だとかを聞いて納得すると、
ラハシャやアルヴィナと体験したことが、
より起こりやすくなった感じがあります。

以前は体験したことを日常で
どうやって実践するかと思っていて、
より能動的で、やろうという考えが先にありました。
そうやって考えている状態では、
怒ったり泣いたりと、
どうしても反応が止まず
振り回されるポイントが日常的にあって、
その反応をどう捉えればいいのかと
思っていました。
反応していることに気づいてはいるけど
止まらない。
何か見逃しているのかな?とか。

感じきっていない何かが出てきた、
とも違う感じがする。
でも日常での対人関係としては困る
反応が起きていて、
止めることもできるけど反応を
先送りする感じがする。
結局、反応が終わるまで待つことを
繰り返していました。

それが、そもそも体が
そういう仕組みだったのかと知り、
その仕組みを書き換えればいいのか、
と知るだけでほぼ起きなくなりました。

でも、そのおかげで、
本当の本当は変わるの怖いんだなとか、
今の自分が本当になくなってしまうことを
こんなに避けているんだな
ということがよりはっきりと見えるようになり、
愕然としましたが。。。

そして、コンパッション。
慈愛・慈悲と訳されますよね。
慈悲って悲しいという言葉が
入っていて気になっていたのですが
「ともに苦しむ」が語源というお話で
なるほど!という感じでした。
ちなみに、慈愛と慈悲に違いはあるのでしょうか?
私自身は、慈愛はなんでも受け入れる温かい感じ、
慈悲は冷たいことも含んでいるという
印象を持っていました。

今も質問しちゃって大丈夫でしょうか??
変更になってたらすみません。」
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 おはようございます。

お便りと感想どうもありがとう。

ジョー・ディスペンザ博士の
オンラインコースに参加したのですね。

> 科学的=再現性がある、ということも実感しました。

それはよかったです。

コンパッションも、
宗教的な修行として取り組むのと、
再現性のある科学として取り組むのとでは
取り組み方がずいぶん変わってきます。

ずいぶん時代は変わったなぁ、
って思います。

コンパッションのトレーニングでは、
その宗教と科学の融合として教えられています。

なにせ、ジンパ博士自身が、
もとチベット仏教の僧侶で、
総院長に近いポジションにあった人ですし、
ダライ・ラマの専属通訳だったこともあるので、
その科学と宗教の両方を取りいれているシステムになっています。

でもダライ・ラマも、
宗教の世界に閉じこもるのではなく、
科学者との対話を重視していて、

インドの自宅で、定期的に、
「マインド&ライフ・ダイアローグ」
という科学者との対話の機会を持っていました。

そのイベントのなかで、そこにいた科学者に向かって
次のように言っていたそうです。

「君たち科学者は、人の意識の病理のマッピングには
素晴らしい業績を上げた。しかし、人の意識のポジティブな側面、
たとえば慈悲心といった資質について、ましてやそれを育てる可能性
についてまったく何の実績も出していない。

一方で瞑想の伝統は意識の訓練や、コンパッションのような
ポジティブな資質を伸ばすテクニックを開発してきた。
君たちの素晴らしいツールを駆使して、瞑想という習慣が持つ効果を
研究してはどうだろう? このような習慣の効果を科学的に解明できたら、
もっと大きな世界に対して広めて行けるんだがね。
スピリチュアルな修行としてではなく、健全な意識と感情のためのテクニックとしてね。」

現代の社会はまさにダライ・ラマが提案した通りに進んでいます。

かたや、ジンパ博士は、

「私は自分の運命とは古典的チベット仏教の伝統を
現代の世界に伝える伝道師となることだと考えるようになった」

ということで、ケンブリッジ大学に入学してその道を歩み、
その結果生まれたのが、CCT(「コンパッション育成トレーニング」
なんですよね。

瞑想もコンパッション(慈悲)も、
それを科学として扱い、取り組むなんて、
数十年前には考えられなかったことです。

本当に時代は大きく変わってきているな
ということを感じます。

> 身体の、脳の仕組みとか
自律神経の話だとかを聞いて納得すると、
> ラハシャやアルヴィナと体験したことが、
より起こりやすくなった感じがあります。

なるほど。
もともとジョー・ディスペンザの
「あなたはプラシーボ」という本を
私に紹介してくれたのは、ラハシャですからね。

それで、その本をOEJ Books から出版することになりました。

ラハシャも一時期、ジョー・ディスペンザの説明を取り入れて、
瞑想などのメカニズムを説明していた時期がありました。

ラハシャは、今はさらに深い「存在」(ビイーング)の方に
シフトしていっているので、
そういう説明も超えちゃった領域に入ってるようですけど。

でも、マインドと瞑想の狭間(はざま)を探求する時は
ジョー・ディスペンザの説明はとても助けになるって思ってます。

そして、そういう原理を理解することで、
そういう瞑想の体験も
より起こりやすくなるっていうのもわかります。

マインドは瞑想に敵対しがちですが、
その原理を理解することで、協力してくれるようになりますからね。

Oshoも、そのようなことを言っている講話もあります。
マインドを瞑想に協力させることは有益だと。

そういう意味ではジョー・ディスペンザの話していることは
明解で説得力がありますね。

以前は体験したことを日常で
どうやって実践するかと思っていて、

より能動的で、やろうという
考えが先にありました。

そうやって考えている状態では、
怒ったり泣いたりと、

どうしても反応が止まず振り回されるポイントが
日常的にあって、

その反応をどう捉えればいいのかと
思っていました。

反応していることに気づいては
いるけど止まらない。

何か見逃しているのかな?とか。

なるほど。
よく探求していますね。
感心します。

反応していることに
気づいてはいるけど止まらない。

何か見逃しているのかな?とか。

それは気づきが深まっていくプロセスです。

最初は感情に巻き込まれていて気づきもしないし、
気づいた時はその感情の嵐が去った後で、
あとで後悔する、みたいな感じですよね?

そしてだんだん気づきが増してくると、

例えば、
怒っている最中に気づくことがあっても、

すでに頭にきているので、
自分は怒っているなぁって思いながらも、
それを途中で止めることができず、
それを相手にぶつけてしまってから、後で後悔する、とか。

でもさらに気づきが増してくると、
怒りをぶつける前に、
怒りがやってくるエネルギーに気づくようになってきます。

ちょうど火事と同じです。
すでに火がついて、家が燃えてしまっている時に
その火を消そうとしても、
消防車が何台も必要で、
消し止めたとしても、焼け跡が残るだけです。

でも、そんな火事も、
最初はマッチ一本の火だったりします。

そのマッチ一本の火の段階だったら、
ふっ!と、一息で消すことができます。

すると、
火事のような大惨事にもならなくてすみます。

それと同じで、
怒りがやってくるエネルギーに初期の段階で気づけば、
そのエネルギーを、
怒りにまで発展させることがなくなります。

ただその怒りのエネルギーに
気づいて観ていることができるし、
それを相手にぶつける必要もなくなります。

さらに気づきが進むと、
相手のことにも気づくようになっていくと
コンパッションの領域に入っていきます。

なので、気づきにはいろんな段階があります。

感じきっていない何かが出てきた、
とも違う感じがする。

でも日常での対人関係としては困る
反応が起きていて、

止めることもできるけど反応を先送りする
感じがする。

結局、反応が終わるまで待つことを
繰り返していました。

なるほど。

それが、そもそも体がそういう仕組み
だったのかと知り、

その仕組みを書き換えればいいのか、
と知るだけでほぼ起きなくなりました。

その仕組みに気づいてしまえば、
その反応をする必要はないわけですからね。

その仕組みに無意識でいる限り、
その仕組みのままに、無意識の中で反応してしまうしかないですからね。

そうすると
やめられない、止まらない、の世界で同じパターンを
繰り返すはめになりますね。

でも、そのおかげで、本当の本当は
変わるの怖いんだなとか、

今の自分が本当になくなってしまうことを
こんなに避けているんだな

ということがよりはっきりと見えるようになり、
愕然としましたが。。。

そういうところまで気がつくなんて素晴らしいですね。

そして、コンパッション。
慈愛・慈悲と訳されますよね。
慈悲って悲しいという言葉が入っていて
気になっていたのですが

「ともに苦しむ」が語源というお話で
なるほど!という感じでした。

ちなみに、慈愛と慈悲に
違いはあるのでしょうか?

私自身は、慈愛はなんでも
受け入れる温かい感じ、

慈悲は冷たいことも含んでいる
という印象を持っていました。

慈悲と慈愛の違いは、ジンパ博士の
「コンパッション」の本では次のように定義されています。

簡単に言えば、

慈愛とは、他者の幸福を願うこと。
慈悲とは他者が苦しみから解放されるよう願うこと。

と定義されています。

この二つは、人の幸福を願う二通りの方法で
その焦点が異なるだけで、
同じコインの裏表の関係にあります。

「コンパッション」の本を持っている人は
174〜 に書かれてあります。

もう少し深く知りたい人のために、
その解説をここに引用しておきますね。

「慈愛 & 慈悲の瞑想を通じて
心(ハート)を解放する」

という項目に、
次のように書かれています。

自らの中にある、
他者を気づかう心とつながるための、

伝統仏教の手法を現代風にアレンジした
コンパッション・トレーニングで使う
正式な坐位瞑想には、

慈愛と慈悲の2種類がある。

仏教心理学で慈愛と慈悲とは
心を二通りに表現したものであり、

互いに気づかい合うという
人類の主要なテーマのバリエーションだ。

慈愛とは、他者の幸福を願うこと、
慈悲とは他者が苦しみから解放されるよう
願うことと定義している。

両者は密接に絡み合ってはいるが、
焦点が異なるためそれに伴う
感情の質も違っている。

これらは同じコインの表裏だと
捉えることができる。

慈悲を、慈しみという傘の元、
苦しみに焦点を合わせた特定の形
だと捉えてもいい。

これらはどちらも四無量心(第四章)のうちの
二つであり、人の幸福を願う二通りの手法だ。

これらの習慣の起源は2500年以上前の
ブッダ本人にまでさかのぼる。」

さらに詳しい解説は本を読んでください。

あるいは、実際にコンパッションを実践していきたいと思う人は
ちょうどCCT(「コンパッション育成トレーニング」)が
10月から始まりますので、そちらで学んでいただくことができます。
https://compassioneducation.jp/schedule

今も質問しちゃって大丈夫でしょうか??
変更になってたらすみません。

はい、もちろんです。
どんな質問をしてもらってもいいです.

書いたことについて質問をいただくのは、
ちゃんと読んでくれていることもわかって嬉しいです。

またのお便り、感想、質問待ってます。

 

以上です。

長くなってしまいました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。

今日はこれまでとします。

えたに