「行為」と「無為」

まず最初にブッダの言葉、
Oshoの言葉から始めていこうと思います。

真理に目覚めた人の言葉です。

「行為は助けにならない、
 行為は再び同じ轍になる

行為ではなく
存在のみがあなたを変える

だから何度も何度も失敗すると
そのときはじめて
『行為が私をどこかへ
導くことはけっしてない』

という洞察が生まれる
剣があなたを斬る日がくる」 
        Osho

これは「行為」と「無為」ということについてです。

「無為の為」という言葉があります。

「老子」や「荘子」の中に出てくる言葉で、
老荘思想の考え方で、簡単に一言で言えば、
自然に物事を成せば良い、などと解説されています。

「老子―三」「無為を為せば則ち治まらざる無し」
(特別な政策を行わず人々を自然のままに行動させれば、世の中は必ず平和になる)」(コトバンク)
と解説されています。

しかし、Oshoは、無為とは「存在」からのものだ、
と語っているわけです。

私たちはいつも「行為」をしています。
それはマインドからのものです。
思考や感情からの行動です。

しかし、その行為は同じパターンになり、
同じ失敗を繰り返すことになって
はじめて私たちは、
「行為が私をどこかへ導くことはけっしてない」
ということをさとります。

では、その行為を変えて、成功すればいいのかというと、
実はその成功も失敗の元になるのです。

それが「塞翁が馬」の物語が示していることです。

失敗が成功のもとになることもあれば、
逆に成功は失敗の元にもなります。

失敗も成功も、幸も不幸も同じことなのです。
禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)しなのです(「史記」南越伝)

マインドから行動している限り、
それはどこにも導くことはない、
というのがOshoの洞察です。

存在のみがあなたを変える

この洞察が自分の洞察になった時、
剣があなたを斬る日がくる」ことになるのです。

 

今日はここまでにします。

えたに