愛は友情による関係であるべきだ

愛は友情による関係であるべきだ
そこでは、誰が優れているわけでもなく
誰がものごとを決めるわけでもない

そこでは、ふたりが
互いに異なっていること
生へのアプローチが異なっていること
考え方が異なっていることに
ふたりとも完全に気づいていて
それでもなお
一― それらすべての違いにもかかわらず
― 互いに愛し合う

そのときは、どのような問題も生まれない
問題は私たちがつくり出している
超人的なものを
創造しようとしてはならない

人間的でありなさい
そして相手の人間性を
人にありがちな
すべてのもろさとともに
受け容れなさい

あなたが過ちを犯すように
相手もまた過ちを犯す
そして、あなた方は学ぶべきだ
ともにいることは大いなる学びだ
―ー 相手も自分と同じ人間なのだと
許し、忘れ、理解し
―ー いま少し寛容になることだ……

ゴールド•ナゲッツ」 by Osho

愛しあう関係というのは、お互いが学びの関係にあることのようです。

どういうわけか、恋に落ちる相手、愛する関係にある相手というのは、自分にとってチャレンジになる人のように思われます。 そもそもが、「男性は火星から、女性は金星から」といわれるぐらいに、別の惑星の生き物かと思うぐらいに男性と女性は全く異なっています。

体の作りから考え方、感情の持ち方にいたるまで、真逆です。 それに加えて、好きになる相手というのは、自分にないものを持っている人に惹かれる、という法則があるようです。

ですので、最初のうちはプラスとマイナス、陰陽のバランスで惹かれあっても、二人の関係が近づけば近づくほどに、今度はその違いが反発の要素になったりします。 そこで、お互いがお互いの都合の良いように相手を変えようとし始めると、そこで問題が生じ、戦争が起こり始めます。

もともとが、お互いが違っているから惹かれあったはずなのに、今度は自分と同じように、ないしは自分とは違うからというので、自分の都合の良いように相手を変えようとし始めるのは自己矛盾です。

でも、自分の内面に目を向けると、面白いことに気づきます。 自分が惹かれている男性ないし女性というのは、ある意味、自分の内面の男性性、女性性の鏡として惹かれ合うようです。

つまり、相手の男性は自分の内側の男性性の鏡であり、相手の女性は自分の内側の女性性の鏡だということが多いようです。 だとすれば、関係性にある相手の人というのは、実は自分の内面の鏡だということになります。

だとすれば、相手の人を愛することは、自分のうちなる男性性、女性性を愛し受け入れることでもあります。 相手も自分自身の分身だと思えば、より愛することが簡単になってきます。

自分の内側の男性性、女性性を受け入れ、融合するようになれば、外側の男性、女性との関係性においても受け入れ、融合することが容易になってきます。 とはいえ、そんな難しいことを考えなくても、ここでOshoが語っているように、相手の人間性を受け入れ、友情を持つことができれば、相手も自分と同じ人間なのだと、許し、忘れ、理解し、いま少し寛容になることができます。

そうすれば、二人の関係性の中で生じている問題というのは、単に自分たちがつくり出しているだけのことにすぎないということがわかります。 外側の関係性に問題がなくなれば、内側の男性性、女性性の関係もくつろぎ、内面の葛藤もなくなっていきます。

逆に、内側の男性性、女性性の葛藤がなくなっていけば、外側の関係性の問題もなくなっていくようです。 いずれにしろ、自分に対しても、相手の人に対しても、寛容になることです。

今日はここまでとにします。

えたに